『幸福の王子』
幼稚園児の頃はなんともインドアな、おこちゃまで、しかも独りっ子でありますからして
幼稚園から帰ってくると、お絵描きするかブロックで遊ぶかでした、このブロック遊びなのですが
色違いのロボット兵を2チーム作るわけですよ、
それを戦わせると云う、男の子の鉄板な遊びでした(*´∀`*)
そうでなければ、絵本を読んでいました。
中でも 『幸福の王子』 の絵本がお気に入りだった事を、急に思い出して
大まかな話しは覚えているのですが
最後がどう終わった覚えてない事に気づきました。
覚えているのは、王子さまは、その身に付けていた宝石を全て貧しい人に与えてしまい
みすぼらしい姿になり、その宝石を冬中運んだ燕は寒さの為に死んでしまう。
宝石のなくなった王子像は汚らしいので壊されてしまう・・・
ここまでしか覚えていないのでした。
それには理由があって、いつも此処まで読むと可哀想で大泣きしてしまい
続きを読めなかったのです・・・(´;ω;`)
ところが、今や大人になった訳ですから、泣かずにその先を読めるのです。
インターネットはなんて便利なんでしょ、検索すると直ぐに見つかりました。
中には、読み聞かせまでしてくれるサイトまでありました。
そして遂に最後を知ることが出来たのです。
フム、フム・・そうだったのかぁ~(´・ω・`)
しかし、大人のホスチアで御座います、ここで満足しては詰まりません。
原文ではどうなの?と、思いこれまた検索・・・
有りましたぁ、しかも初版本を挿絵からアップしているサイトが(^0_0^)
そこで驚くべき事実が・・・(;゚Д゚)! そんなたいした事ではないのですが
日本の絵本の最後は、神様から遣わされた天使が、
王子(心臓だけ)と燕を天国に連れて行き、ふたりはそこで幸せに暮らしましたとさ。
で、終わるのです。
けれど、原文は天国に行くまでは同じなのですが、天国での暮らし振りが少々違います。
原文では、『神は、私の楽園でこの小さな鳥は永遠に歌うものに、
そして王子は黄金の私の街で、私を賛美するものとするためにと、述べた』
この違いは結構大きのです。
日本版を解釈すると、幸せの主体は、あくまでも王子と燕なのです。
これは読んだ子供は、善い行いをする事が自分の利益になると感じるでしょう。
けれど原文は違います。人間の存在が善い事を成す事で、天に上げられ
その天に於いては、己の幸せ以上の幸福である、
天使や聖徒共に神を賛美する列に加えられる、と云う事でしょう。
こんなにカトリック的な童話だったんだなぁと、気まぐれな想い出検索で知ることが出来ました。
それでも、最後まで読めたとしても、おこちゃまな俺には解らなかったでしょうけど。
何が悲しかったと云えば、王子さまではなく、ツバメちゃんだったのです(´;ω;`)
初版本の電子bookは、下記のサイトです。
by
Project Gutenberg
英語ですが、読んでみて下さい。
本当は深いお話だったのですね。
返信削除その後に出てくるナイチンゲールと薔薇のお話が
せつなすぎでした。
リアンさん❁まりあぁ~(*´∀`*)
返信削除コメント有難うございます。
『ナイチンゲールと薔薇』も絵本で読んだ事があって、同じオスカー作だったとは知りませんでした。
絵本はあらすじ的で文学的表現が無かった為、原文を読むとなんと美しい文学だったんだと感じます。
オスカー・ワイルドの『雅歌』なのかもしれませんね。
啓蒙思想的に物事を考察してしまう哲学生は、それでも薔薇と云う「役に立たない」一輪の花に希望を抱く、けれど人間的価値基準で高価される宝石に負けてしまう、その物質的無意味さを悟のけれど、『愛』の素晴らしさに気づかず、欲望の恋(エロス)に絶望し古びた本の世界に引き篭ってしまう。
死んでしまったナイチンゲールは薔薇が溝に棄てられようと、それを知る事は出来ないのだけれど、学生の幸福を祈り歌う、永遠に・・・
全くの悲劇なのだけれど、愛の中に生かされている事に気づけない愚かさを読者は知るのでしょうね・・・
悲しい゚(゚´Д`゚)゚
ナイチンゲールの和名は小夜啼鳥(サヨナキドリ)だそうです。
なんて切ない名前なんでしょ・・・クスン