火曜日, 1月 31, 2012

Tournesol d'hiver ・ 冬の向日葵











修室の窓から眺める空は

遠い青で

白いマンションの外壁タイルが眩しいよ

いつか、教会の祭壇の前に向日葵があったよね

百合でも薔薇でもなく

向日葵

それは、マンションの扉を開けると

とびっきりの笑顔で迎えてくれた

君のように

少し疲れてしまった心を抱きしめてくれた




夏が好き

向日葵が咲くんだよ

「わたし、愛の大好きなとこは、愛がわたしを
大好きなとこだよ」

向日葵みたいに笑って君は言っていたよね

きっと、向日葵はね、

わたしはいっぱ、いいっぱい

大好きって顔を天に上げて

神さまに夏の日に

歌っているんだよ




御聖堂の向日葵を見た時

俺みたいだって思った


なんか目立つし、浮いちゃってたから














ねぇ君は、今でも向日葵みたいに笑っていますか

その笑顔で誰かを癒しながら

愛をしていますか




俺も向日葵になるからね

夏を待ち望みながら

今は

冬の向日葵

夏に憧れる

向日葵だけどね
















日曜日, 1月 29, 2012

Excavation de Sainte-Thérèse ・ 聖テレーズの御遺体発掘のフィルム

















聖テレーズは生前「私は死んで、
この身体が腐敗しないなどと云う事は望んでいません。」
と語っていたそうです。

けれど、御遺体発掘のその日、多くのフランス国民は、そいではなく生前と変われぬ
聖女の姿を期待したのかもしれません。

御遺体は、聖テレーズが望んだ様に、朽ちていましたが
その棺を開けた時に、香しい良い香りが立ち篭めたと、正式に記録されています。

















土曜日, 1月 28, 2012

priez!































Lune solitaire ・ 三日月は孤独






 



Vous pouvez toujours aller loin dans la solitude

Votre maison de prière n'est pas.






冬の大気が淋しい

きっと これは 孤独

あなたも そして 孤独

似てると 思った

愛されてる

愛して

きっと これは 孤独







金曜日, 1月 27, 2012

神のあわれみの愛に身を捧げる祈り





シスターのコメントへの返事の中で書いた聖テレーズの祈りについての
御質問がありましたので、原文と翻訳をアップします。
尚、記載の翻訳に関しましては幾つかのヴァージョンがあり
其れ等のうち俺が確認した翻訳と原文から、
俺が祈り易く、想いが込められる事を念頭において
行なったものなので、適切とは言えないと思います。
御了承下さいませ。



Offrande de moi-même comme Victime d’Holocauste 
à l’Amour Miséricordieux du Bon Dieu

Ô mon Dieu ! Trinité Bienheureuse, je désire vous Aimer et vous faire Aimer, travailler à la glorification de la Sainte Eglise en sauvant les âmes qui sont sur la terre et (en) délivrant celles qui souffrent dans le purgatoire. Je désire accomplir parfaitement votre volonté et arriver au degré de gloire que vous m’avez préparé dans votre royaume, en un mot, je désire être Sainte, mais je sens mon impuissance et je vous demande, ô mon Dieu ! d’être vous-même ma Sainteté.
Puisque vous m’avez aimée jusqu’à me donner votre Fils unique pour être mon Sauveur et mon Epoux, les trésors infinis de ses mérites sont à moi, je vous les offre avec bonheur, vous suppliant de ne me regarder qu’à travers la Face de Jésus et dans son Cœur brûlant d’Amour.
Je vous offre encore tous les mérites des Saints (qui sont au Ciel et sur la terre) leurs actes d’Amour et ceux des Saints Anges ; enfin je vous offre, ô Bienheureuse Trinité ! l’Amour et les mérites de la Sainte Vierge, ma Mère chérie, c’est à elle que j’abandonne mon offrande la priant de vous la présenter.
Son divin Fils, mon Epoux Bien-aimé, aux jours de sa vie mortelle, nous a dit : « Tout ce que vous demanderez à mon Père, en mon nom, il vous le donnera ! » Je suis donc certaine que vous exaucerez mes désirs ; je le sais, ô mon Dieu ! (plus vous voulez donner, plus vous faites désirer). Je sens en mon cœur des désirs immenses et c’est avec confiance que je vous demande de venir prendre possession de mon âme. Ah ! je ne puis recevoir la Sainte Communion aussi souvent que je le désire, mais, Seigneur, n’êtes-vous pas Tout-Puissant ?… Restez en moi, comme au tabernacle, ne vous éloignez jamais de votre petite hostie…
Je voudrais vous consoler de l’ingratitude des méchants et je vous supplie de m’ôter ma liberté de vous déplaire, si par faiblesse je tombe quelquefois qu’aussitôt votre Divin Regard purifie mon âme consumant toutes mes imperfections, comme le feu qui transforme toute chose en lui-même…
Je vous remercie, ô mon Dieu ! de toutes les grâces que vous m’avez accordées, en particulier de m’avoir fait passer par le creuset de la souffrance. C’est avec joie que je vous contemplerai au dernier jour portant le sceptre de la Croix ; puisque vous (avez) daigné me donner en partage cette Croix si précieuse, j’espère au Ciel vous ressembler et voir briller sur mon corps glorifié les sacrés stigmates de votre Passion…
Après l’exil de la terre, j’espère aller jouir de vous dans la Patrie, mais je ne veux pas amasser de mérites pour le Ciel, je veux travailler pour votre seul Amour, dans l’unique but de vous faire plaisir, de consoler votre Cœur Sacré et de sauver des âmes qui vous aimeront éternellement.
Au soir de cette vie, je paraîtrai devant vous les mains vides, car je ve vous demande pas, Seigneur, de compter mes œuvres. Toutes nos justices ont des taches à vos yeux. Je veux donc me revêtir de votre propre Justice et recevoir de votre Amour la possession éternelle de Vous-même. Je ne veux point d’autre Trône et d’autre Couronne que Vous, ô mon Bien-Aimé !…
A vos yeux le temps n’est rien, un seul jour est comme mille ans, vous pouvez donc en un instant me préparer à paraître devant vous…
Afin de vivre dans un acte de parfait Amour, je m’offre comme victime d’holocauste à votre Amour miséricordieux, vous suppliant de me consumer sans cesse, laissant déborder en mon âme les flots de tendresse infinie qui sont renfermés en vous et qu’ainsi je devienne Martyre de votre Amour ô mon Dieu !…
Que ce martyre après m’avoir préparée à paraître devant vous me fasse enfin mourir et que mon âme s’élance sans retard dans l’éternel embrassement de Votre Miséricordieux Amour…
Je veux, ô mon Bien-Aimé, à chaque battement de mon cœur vous renouveler cette offrande un nombre infini de fois, jusqu’à ce que les ombres s’étant évanouies je puisse vous redire mon Amour dans un Face à Face Eternel !…
Marie, Françoise, Thérèse de l’Enfant Jésus, de la Sainte Face - rel.carm.ind.
Fête de la Très Sainte Trinité, le 9 juin de l’an de grâce 1895


神のあわれみの愛に身を捧げる祈り






 おお、神様、幸福そのものでいらっしゃる聖い三位の神様!
私は御身を愛し、また愛させ、世に在る人々を救霊の道に導き、煉獄の霊魂に天国の門を開いて、聖会の光栄のために尽くしたいのです。

 主の御旨を完全に果たし、私のために御国に備えられている光栄の高さまで達したいのです。
 すなわち、私は、聖人になろうと願っております。

けれども私は、じぶんの無力を感じておりますゆえ、おお、神様、どうぞ御身ご自身、私の聖徳におなり下さい。

 御身は、御ひとり子を、私の救い主、天の、花婿として御与えになるほど、私を愛しておられたのですから、御子の功徳の限りない宝は、みんな私のものでございます。

 それゆえ私は、喜んでそれを御身に御捧げし、どうぞ、イエズス様の尊い面影を通してだけ、また愛の燃えるイエズス様の御心の中だけ、私を眺めて下さるようにお願い致します。

 また、天国とこの世に居る聖人すべての功と愛の行いを、すべての天使たちのそれとともに、御身に御捧げ致します。

 そして、おお、もっとも幸いな聖三位の神様、私はさらに私の御愛する御母、処女聖マリアの愛と御功徳を御捧げし、聖母の御手にこの奉献をお任せし、聖母御自らこれを御身に御捧げ下さる様に心からお願い致します。 
 尊い御子、私の最愛の天の花婿は、地上におられたとき、「あなたたちが、私の名で、父に御願いするものは、何でも与えて下さるだろう!」と、おおせになられたのですから、御身は必ず私の望みを叶えて下さるものと信じております。おお、私の神様、御身は、与えようと御望みになればなるほど、ますます熱く望ませようとなさるのを、私は存じ上げております。私は、果てしない望みが心に湧き上がるのを覚えます。そして深い信頼をもって、御身が私の霊魂を、完全に御身のものになさって下さる様に御願い致します。ああ!私は、自分が望むほど度々御聖体を拝領する事ができません。けれども主よ、御身は全能であられるのではないでしょうか?聖櫃の内に御留まりになる様に、私に内にも御留まっておられ、主の小さいホスチアから、決して遠ざからないで下さい。

 私は罪人の忘恩償い、御身を御慰めしたいと願っております。私が御身の御心に背こうとする自由を、取り去って下さる様に、心からお願い致します。もし私の弱さのために、あやまちを犯すことがあれば、すぐに、御身の尊い御眼差しで私の霊魂を清め、ちょうど炎が全てのものを、同じ火に変えてしまう様に、私の全ての不完全を焼き尽くして下さる様に!

 おお、私の神様、御身が私に下さった全ての御恵み、とりわけ、苦しみの坩堝を通らせて下さったことを、感謝申し上げます。私はこの世の終わりには、十字架を王笏にして君臨される御身を、喜び拝むことができるでしょう。御身は、御身はこのように、尊い十字架を、私にも分け与えて下さったのですから、天国で私は、御身に似た者となり、私の光栄の身体に、御身の御受難の尊い御傷が、輝いていることを希望致します。

 地上の島流しが終れば、天の故郷で、御身を御享けすことができることと、希望しています。けれども、天国のために功徳を積もうとは望みません。ただひたすらに、御身をお喜ばせし、御身の御心をお慰めし、人々の霊魂を救い、永遠に御身を愛させることだけを目当てにし、ただ御身への愛のためだけに働こうと望んでおります。

 この世の命の夕べに、私は空の手で御身の御前にまかり出ることでしょう。主よ、私の主よ、私は、私の善業を数えて戴きたいとは願いません。主の御眼には、人の義も全て汚れたものとしか映りません。ですから、私は、私は、御身ご自身の義を纏い、御身の愛によって、御身ご自信を、永遠に自分のもとしたいのです。おお、最愛の御方よ、私は、御身ご自身でなければ、他のどのような王位も栄冠も望んでおりません。

 御身にとって、時など何ものでもございません。一日も千年です。それゆえ瞬く間に、私を御身の御前に出るに相応しい者になさることがおできになります。

 一つの完全な愛の行いのうちに生きるために、主のあわれみの愛の生贄として、私はじぶんを御捧げ致します。おお、私の神様、どうぞ絶え間なく私を焼き尽くし、御身の中に堰き止められている限りない御慈しみの波を、私の霊魂にみなぎらせ、御身の愛の殉教者にして下さい。

 この殉教が私を主の御前に出るのに相応しい者にした後に、遂に私を死なせますように!こうして、私の霊魂が、まっしぐらに飛んで行って、御身のあわれみの愛に、永遠に抱擁されますように!

 おお、最愛の主よ、私は、この世の影が消えうせて、永遠に、顔と顔とを向けあって、御身と愛を語ることができる日まで、心臓の鼓動に合わせて、何度も何度も、この奉献を繰り返していく覚悟です!



不肖なるカルメル会修道女
幼きイエズスと尊き面影の
マリー・フランソワーズ・テレーズ







木曜日, 1月 26, 2012

修道院に住み始めた妖精たち









ホスチアこと愛くんは目下レポートに追われているのです・・・がぁ。。。
遅々として進みません(´;ω;`)


今夜も酷い頭痛に襲われ、薬を飲んで少々仮眠・・・
てなわけで、回復致しましたので、レポート書きを再開です。


で、御覧のとおりの有様で、机の周り、ベットの上まで資料と本で埋まっているので御座います。
因みに只今仕上げているのは、霊性神学のレポートで、テーマはIoh.13-34。


ところで、一昨日あたりに東京は雪☃が降りまして、今夜も窓を開けますと信州長野辺りで黙想会に来ている様な心持ちになる冷えた大気で修室は満たされて仕舞います。
そして、部屋の暖房は省エネモードで効きが・・・((´д`))


そんなフランシスカンな修道院に今、妖精たちが住んでいるのですよ。


自分たちの故郷の星に住めなくなった妖精たちは、言葉も通じない異国で暮らします。
地球の年齢ですとまだあどけない少女の姉妹と弟、そしてお母さんの家族は、
異文化の中、それも不思議な国、ジャパンで、
しかも修道院なんて場所にもめげず、毎日笑顔です。


そんな彼女たちは雪が初めて、修道院のグランドに積もった雪を楽しんでいました。
雪があれば、それが初めてでも作るんですね、雪だるま(*´∀`*)






ちょっぴり悲しげな小さな、雪だるま。。。妖精の作った雪の精のよう。


この妖精たちが、いつか自分の故郷で命の危険など無く
自分たちの森の中で、笑って笑って暮らせますように

ちょっぴり悲しげな小さな雪の精の祈りと併せましょう。

聖母と共に祈りましょう。



そんな妖精たちのメッセージ・・・解読不能な不思議な図形が雪の上に有りました。







???







あ・・・レポート書かなきゃ(゚д゚lll)




水曜日, 1月 25, 2012

ありがとう。。。












から











AI











Vivre d’amour ・ 愛に生きる テレーズ・マルタン











« Vivre d’Amour, quelle étrange folie ! » 

Me dit le monde, " Ah ! cessez de chanter, 


Ne perdez pas vos parfums, votre vie, 


Utilement sachez les employer !…" 


T’aimer, Jésus, quelle perte féconde !… 


Tous mes parfums sont à toi sans retour, 


Je veux chanter en sortant de ce monde : 


« Je meurs d’Amour ! »





✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・





「なんと奇妙な狂気でしょう。愛に生きるとは」
そう世は私に言いましょう。
「歌うのをやめるのです あなたの香り あなたの命を失わないで
それはもっと素敵な事に使える事に気づいて」と・・・

あなたを愛する
イエズスよ

それは なんと素晴らしい損失でしょう!
私の香りは全て 永遠に あなたのものと
この世界から去りながら歌いたい

「愛で死ぬ!」と








月曜日, 1月 23, 2012

Mère chagrin ・ 母の悲しみ










母は悲しい

貴女は人生で母である事に

幸福

そう感じた時間がどれ程でしたか

その時

俺は

貴女にとって

どんな

息子でしたか

その幸福は

貴女の幸福ですか

俺の幸福でしたか



きっと



貴女は

不幸でした



それは

俺が

仕合わせではなかったから

こんな

親子は

不幸です。



貴女が幸せと感じたその時がどうか俺の幸せでありますように
それが産まれたばかりの俺だったとしても
貴女が幸せと微笑みながら涙を流した事と
俺の幸せが同じ瞬間で在りますように



もう、確かめられないけれど



不幸な母の人生で
幸福を与えたのが
俺である事を
たとえ
一瞬だったとしても









母さん

貴女の息子で

良かった


産んでくれて
ありがとう

もう
泣かないで



安らかに



アーメン







日曜日, 1月 22, 2012

Or bordés de porcelaine ・ それは悲しい記憶





















金の縁どり白い陶磁器

悲しくて
悲しくて
悲しくて

御母様どうか御仕舞い下しさいませ。

破れてしまいましょう

紅い西の魔女が、子供部屋の扉を叩きますから

金の縁どり白い陶磁器

紅いお茶
紅いお茶
紅いお茶

御母様どうか御飲みならぬように

破れてしまいましょう

桃色のあなたの眼には映りませぬ

あなたの子供が壊れたとしても

金の縁どり白い陶磁器

悲しくて
悲しくて

震えていたのは

あなたの愛。



✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝




きっとそれは俺がまだ2歳の頃からっだった思う・・・

不思議と2歳の頃の様々な記憶が鮮明に残っている

家のカップボードの中に、今、思えば欧羅巴製、たぶん仏蘭西製だと思われる
金の縁どりが施されているティーカップや皿、それと貴族の男女が切株で戯れる
そんな白磁器があった。

俺は、それが嫌いだった。嫌いと言うより怖かった。

そして、悲しくなる

無性に悲しいのだ

それは、現在でも変わらず、悲しくなる。

その子供の頃に、それを割って叱られたからではなく、その白磁器達に気づいた
その時から、悲しい。そして怖かった。

根拠すら解らないまま、今でも悲しい。

『共感覚』と云う人の感覚を知っているでしょうか。
それは、文字に特定の色が見えたり、音に色を感じたりと、それが他人にも共通する
感覚らしい。

俺は、大学で美術を専攻していました。
子供の頃か絵を描くのが好きで、それが高じてと云う訳ですが、そんな中、講義で最も好きだったのが、色彩でした。色彩には誰でも、色の持つメッセージを受け取る事が出来る。
とすれば、その逆にメッセージから色を感じるとしても、不思議ではない。

共感覚を説明する場合、解り易いように、文字に色、音に色と説明されることが多いのですが
実際はもっと複雑で例えば、キティちゃんを見ると迷子になって泣いている子供に見えるとか
ミッキーマウスが、恐ろしいオバケに見えてしまうとか

様々なのですが、それに共感する人間が存在するのがこの『共感覚』なでしょう。

もしかしたら、俺の『金の縁どりの白い陶磁器』」を見ると、悲しくなる


この悲しみを共有してくれる誰かが存在しているかもしれない・・・

そう思うと、笑顔になるのです。




俺が共感覚かどうか判らないけれど、このvideoを見て、涙がでました。











土曜日, 1月 21, 2012

Dîner du monastère ・修道院の夕餉






















本日、ホスチアは夕食当番で御座います。

当番が廻ってくる度に、何を作ろうか本当に悩みます゚(゚´Д`゚)゚

此処数日、寒い日が続いているので、

「そうだ!シチューにしよう(*´∀`*)」

と、云う事で、本日のディナーは、『ビーフ・シチュー』となりましたぁ~

飴色玉葱から作るので、なかなか時間が掛かるのですが

馬鈴薯いっぱい

人参いっぱい

マッシュルームもふわふわ

勿論、お肉は牛さんです。

御味はと云えば・・・美味い!

さぁ、召し上がれ。



金曜日, 1月 20, 2012

♥ Le premier baiser ♥ ハジメテ ノ キス

















東京は雪

風に舞わされる雪を見ると

遠い愛を想う

ハジメテ キス シタ アノ日ノ コト ヲ

ツメタイ 唇 ガ 優シカッタ

君 ノ コト ヲ 想 イ 出 シマス


あのね、俺、今ね

君の通っていた女子校の在る町に

住んでいるんだよ。

君が着ていたセーラー服と

今も変わらない制服を見掛けると

小さな君が、大きな瞳で

俺を見上げながら話していた

朝の電車の中を想い出して

笑顔になったりするよ


君の初めてのキスは俺で

俺の初めてのキスは君で

雪が、降って

何度もキスをして




C'est précieux souvenirs








木曜日, 1月 19, 2012

Evangile de Jean chapitre 15 (ヨハネ福音・15章) 愛。

























近頃、毎晩繰り返し読んでいる、ヨハネの15章。

ヨハネ福音の14章から17章は他の3つの福音と大きく違う。

それは、イエズスが、愛する者に語る言葉。

それは、イエズスが、選んだ者だけに語る言葉。

其処では、16章29節で弟子が語る様に、もう喩えなどは使われない。

繰り返し読むのです。

15章12節から17節までを・・・

何度も、何度も、何度も。




掟を。




其処には、主の御血で書かれた、唯一の文字が在る。

丹念に、力強く、恐れなく、書かれた、文字。

その文字を、撫ぞる。

荊棘で覆われているのだけれど

撫ぞる、その指先は爪も剥がれてしまうのだけれど

丹念に、時間が掛かろうとも、恐れなく

撫ぞりましょう。






その文字は、キリストと読むのです。







火曜日, 1月 17, 2012

kittyちゃんを食べてみました。























学校に行く途中に、サークルKがあります。
ちょっと、トイレを借りに入ったら、中華まんのホカホカ機(・・って云うのかなぁ)
最上段に、ぷっくら蒸されたキティちゃんを発見(@_@。

瞑らな瞳で、訴えかけるように

『わたしを、食べて・・・♥』

そう、囁かれてしまい・・・150円を小銭入れからカウンターに置いていました。

「おぉ~、かわゆぃ♥・・・」 桜色のリボンが楚々とした感じを醸し出している
なかなかの1品で御座います。

しばし、キティと見つめ合い・・・愛をこめて

パクッ・・・(*´∀`*)

あ・・俺の歯型に、キティちゃんの顔が・・・その残虐な行為によって無残な姿になった
彼女は、お見せするわけにはいきません、ので・・・もぐもぐ。

食べ終わって見ると、キティまんに敷かれていた紙に、占いが載っているではありませんか



中ハッピー・・・中吉って事なんでしょうか。

それによりますと、デートに、お勧めのラッキースポットは、水に関わる癒しのスポット

水と云えば、ルルドでしょ。。。そうか意外な共通話題って事は・・・そんなルルドで

「え~ッ!ホスチアさんクリスチャンだったの!わたしもぉ~♥」と、盛り上がり

「ねぇ、モーセ五書で何が好き?」とか
「バビロン捕囚後の預言は、ちょっと怖いけど、今の世界と共通する気もするの」とか
「裏切り者だけど、イスカリオテのユダは救われないのかなぁ」
なんてリラックスした話題で盛り上がり、二人の距離が一気に縮まるのだね(#^.^#)

ん。。そんなに嬉しく無いかも。。。それ誰?

水と云えば、キリスト教にとっても、水は神聖な存在、主も度々喩え話しに出される。
印象深い箇所とすれば、「サマリアの女」の部分でしょう。

あの箇所で、唯一、主が疲れを見せる記述が書かれているのは、肉体的弱さを感じさせ
親近感と、休んで欲しいと感じてしまう記述です。

一方、サマリアの女は、男の愛を求めて5人の男性と暮らしてきた、凄腕の女性。
だからか当初、彼女はイエズスを小馬鹿にしているような態度をとる
当時、ユダヤ人はサマリア人とは付き合わなかった、それは血筋を重んじるユダヤ人にとって
バビロン捕囚中に異邦人と混血したと思われる彼らを、正当な神の民と認めず
彼らと交わる事で、汚れると考えいたからである。
そんなユダヤ人であるイエズスが、サマリアの女である自分に水を求めるなんて
どうせたいした男ではないと思ったのかもしれない。

しかしイエズスと話す内に、並外れた預言者と感じる様に変化する。
サマリア人も、ユダヤ人と同じ神を信じていた、イエズスは預言者が語るメシアは自分だと
福音の中でも珍しく、自ら宣言をする。

そして、イエズスは自分は命の水と言われる。
決して乾くことない、生きた命の水だと・・・女はイエズスを信じた、そして普段は自分に後ろ指を
指す町の者達にそれを伝えにとって返すのである。

イエズスに出会った者は、「変わる」それは現代でも同じなのでしょう。
何かに囚われている者にとってイエズスは、命の言葉であり、乾き続けて生きてきた者の
命の水、そのものなんのです。

しかしここで疑問が・・・喉が乾き彼女に水を飲ませて下さいと言ったのに、彼女はイエズスの
話しを聞いて町に帰っちゃったのです。

「あ・・町に帰る前に、水ぅ・・・」って、思ったよねぇ。。。イエズス様、可哀想(´;ω;`)

ん。。キティまんから、だいぶ話しが飛んでしまったのですが、そのキティまんのお味は
仄かにアップルの香り漂うカスタードクリームで御座いました。

美味しかったよ(*´∀`*)