水曜日, 2月 01, 2012

《新しい掟》 ヨハネ福音書 13章34節














あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい。




Ioh.13-34





主は、最も重要な掟とは、との律法学者の問いに答えられ、こう言われた。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二の掟も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」Matth.22-3440

ユダヤの民は律法に依って生きていた。律法を遵守する事は救いに至る手段であり、この主の言われたレビ記の一節に於ける「愛」を律法の遂行手段と考えていた事でしょう。

《神は愛です。(1Ioh4-16)》 福音記者・聖ヨハネは、その書簡の中でそう宣言します。
人は神の愛の中に生きています。愛の中でただ生きていれば、その神の愛に気づく事はないと感じます。

しかし愛によって存在し、生かされている事を信仰によって気づくのです。

そしてそれは神の愛の発露として律法(掟)が存在する事に気づく事が出来るのでしょう。

聖パウロは書簡の中で《アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた。》と述べているように、アブラハムは行いによって義とされたのではなく信仰によって義とされたのです。

《隣人を自分のように愛しなさい》この言葉を善い行いとして遂行するならば、聖パウロが述べる様に義とはされないでしょう。

行いは愛の表現方法ではあるが、愛そのものではないのでしょう。

行いが愛とされる時、そこに信仰があり、《愛の実践を伴う信仰こそが義とされる》と、同じく聖パウロが書簡・ガラテヤ書(56)の中で述べている事に心を留めます。

では、主はこの戒め、律法に書かれている事を軽んじていたでしょうか?

いいえ、決してそうでは無かった筈です。何故なら最も大切な掟の第二番目として挙げているのですから。

しかし、主は新しい掟を御与え下さった。それを、わたしたちへの命令とまで言われた。

『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』Ioh.13-34

『互いに愛し合うならば、其れによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知る様になる』同‐35

何故に主は新しい戒めと言われたのだろうか、レビ記に記される戒めを何故に古いとされたのだろうか。

主は、『父がわたしを愛されてように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。』Ioh.15-9

と言われ、その新しさとは、御父が主イエズスを愛された、その愛し方なのでしょう。
御ひとり子を世に渡されるほど、神は世を愛された。

神の愛は、その愛の分配者、仲介者である主イエズスによってわたしたちに注がれます。

それは全くの恩寵として、聖パウロが言う様に無償で注がれているのでしょう。
そして主が諭される様に、その愛にとどまる事は、神である御父に栄光を帰す事となるのでしょう。それは自分を顧みる事のない愛であり、痛みを伴い傷つく愛なのでしょう。

《私は愛に傷ついた(私が恋の病にかかっている・・・)》雅歌58を引用して教父オリゲネスはヨハネによる福音注解のなかで、神の愛は鋭い矢のように人を傷つけると述べています。

その新しさは、親、兄弟、友人など親しい間柄の中に起こる何らかの自己の利益を伴う愛に似たものではなく、キリスト・イエズスに出会う事で、その鋭い矢に傷つけられた者達が
《衣を脱いでしまったのに どうしてまた着られましょう。 足を洗ってしまったのに どうしてまた汚せましょう。》雅歌53との激しい愛の応答によって、新しい掟、キリスト・イエズスを着る新しい者と変化し、神の愛の中に生きている事を思い知るのだと感じます。

そして主イエズスはその愛にとどまる者を弟子とし、友と呼ばれるのです。

此の事を聖アウグスティヌスは著作・ヨハネによる福音書講解説教・第65説教で同じく雅歌の一節を引用して示して下さいます。

「《荒れ野から上って来るおとめは誰か。》雅歌8-5によって歌っている神の独り子の新しい花嫁のからだとして呼び集められる愛なのだ。」と。

その後に続く 《恋人の腕に寄りかかって。》 とは正に、主の御腕に全くの信頼をよせる、わたしたちの愛の応答に他ありません。

しかし、その主と出会うまで、人はこの世の苦しみに翻弄され、様々な欲望の枷で重い霊魂を引き摺るのです。その虚しさに気づき始めた時、人は 《私の愛を探しながら、私は行こう。
あの山々を超え、彼の岸辺を通って。 花も摘むまい、野獣も恐れまい。 強い敵も、国境も超えて行こう。》十字架の聖ヨハネ・愛の賛歌

そう決意し、愛を探すのでしょう。そして愛は 《お帰り、鳩よ》十字架の聖ヨハネ・愛の賛歌 と応えて下さるのです。

それは、隣人を自分の様に愛すると言う戒めの神の声を、平面的なX.Y軸でしか捉えられなかった人類が、受肉された主キリストにより、神である御父の愛が上から人類に下った御言葉として留まる術を与えられ、立体的なZ軸方向の愛をその霊魂に刻む事が可能になったのでしょう。

『父がわたしを愛されてように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。』Ioh.15-9

留まる為には、主の差し出された愛に傷つき切り刻まれ、古い己に死に、新しい掟、主イエズス・キリストを纏う以外何も身につけず《空の手で御前にまかり出る》幼きイエズスと尊き面影の聖テレーズ・神の憐れみの愛に身を捧げる祈り事であり、己に死んだ霊魂はキリストに《接ぎ木され》ロマ書11-23
《それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 1コリント・12-2527と聖パウロが示す様に、己に死にキリストと一体となった霊魂は、互いに愛し合うのです。
その死は滅びではなく、愛なのです。《愛は死のように強く 熱情は陰府のように酷い。 火花を散らして燃える炎。  大水も愛を消すことはできない洪水もそれを押し流すことはできない。雅歌8-6と、おとめたちが歌うように

《「なんと奇妙な狂気でしょう。愛に生きるとは」そう世は私に言いましょう。 
「歌うのをやめるのです あなたの香り あなたの命を失わないで、それはもっと素敵な事に使える事に気づいて」と・・・
あなたを愛する イエズスよ
それは なんと素晴らしい損失でしょう! 
私の香りは全て 永遠に あなたのものと
この世界から去りながら歌いたい 「愛で死ぬ!」と。》幼きイエズスと尊き面影の聖テレーズ・Vivre damour13と、聖テレーズが祈るように、愛の為に己に死に、愛故に互いに愛し合う。
全ては、主イエズス・キリストを通して神から恵まれた愛を全うする事で、主イエズス・キリストによって父である神に栄光を帰すのです。それは恰も地上の重力から解き放たれて恩寵へと飛翔するかのようにキリスト共に愛が神に帰る。 此処に謙遜がある。

《恩寵 それは下降運動の法則である。 我が身を低くする事。それは精神的重力から見れば、上昇する事である。精神的重力は我々を高い処へと下降させてくれる。》シモーネ・ウェーユ・重力と恩寵より

『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』Ioh.13-34

この新しい掟には、ユダヤの律法はもとより、被造物である人類の創造の神秘が示されているのでしょう。

そして、それは単純な言葉で示されました。


『互いに愛し合いなさい』 と














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