のだめカンタービレを見てたら
想い出したマンガがありました。
もう随分むかし
子供の頃
母親は別冊マーガレットを毎月買って読んでいて
俺も読んでたわけで
大好きだったマンガが有りました。
「おしゃべり階段」
くらもちふさこさんの描かれたマンガです
で、すっかり、くらもちファンになってしまった俺は
その次に連載されたマンガ
「いつもポケットにショパン」
にもハマってしまったのです。
でも、マンガは音がありませんから
その「ショパン」が解からず
母親に、ショパンの曲が聴きたいと、せがむのでした。
そんな或る日、母親が1枚のレコードを買ってきてくれます。
Fujio Hemmingの演奏のLPレコード
その、ふじこさんの演奏を聴きながら
きしんちゃんのノクターンはこれだったにょかぁ・・・
と、マンガの中から音が溢れてくる思いがするのでした。
「いつもポケットにショパン」の中で
主人公あさこのセリフで覚えているのが
2つある
子供だった、あさこと仲良しのきしんちゃんは一緒に
ピアノ教室に通っているのだけれど
発表会が迫ってきた或日
きしんちゃんが、あさこに聞きます。
「ねぇねぇあさこちゃん、発表会には何着るの?」
すると、あさこは
「あかいワンピース。」
と、答えるのです。
そしてもう1つ
あさこはきしんちゃんと一緒に演奏するのが望みです
それを、あさこはこう言いうのです
「それは、わたしの宿望なのです。」
子供の俺には何処か恐ろしげな文字に見えた。
人が人を慕い愛する時
それは
宿望なのでしょう。
そうでなければ、人は人を慕い愛し続けられない。
いや、愛は本来そうした在り方なのかもしれない
それが、神を求める生き方であっても・・・
だから
「それは、俺の宿望なのです。」
ホスチアさん、こんにちは。
返信削除乙女チック路線に、こんな話で申し訳ないのですが、多分同じ時期だと思います。私は少年マンガを読んでいたことを思い出しました。すごくこわかったマンガがありました。人にナンバーがつけられ、身体にしるしがつけられ…これ、預言か何かだったと思うけど、聖書にそんなこと書いてありますか?
今日、マイナンバー制度の記事を見つけました。
結論は初めからあるのか…決まっているのか…主の再臨を信じている方なら、恐らく結果ありき…?
自分ってどこに存在しているのでしょうね。考えている間に、その時はもう存在しないのですから(笑)
あ、それから私のコメントは、くだらないので、公開はホスチアさんが決めてくださいな。
返信削除✿道子さん✿コメント有難うございます。
返信削除学生の頃に遺跡発掘のバイトをした事があって、縄文の遺跡を調査していた時に調査の責任者の教授からこんな話しを聞きました。
縄文の集落に現在似ている形態をとっているのはアフリカのまだ文明に犯されていない地域らしいのですが、そこに教授が人口調査に行ったそうです。
A集落で何人、B集落では何人・・・そしてC集落に行った時に、或ことに気づきます。
「あれ?あなたはA集落に居ませんでしたか?」その人は答えます「あそこも俺の村だしB集落にも妻がいるから。Bも俺の村だ。」
そこで教授はあらためて辺りを見渡すと、見た顔が大勢いるのです。
つまり、集落毎の人口調査が出来ない事に気づくのです。
しかし、誰もが、その特定の人を理解している。
それを長が管理する必要などいらない、その様々な集落の住人であっても、その人の存在は揺るがないのです。
けれど文明社会?は、管理しばければ不安になる。
しかし管理される事も不安になる。
それでも懐疑心と恐れとで管理する、しかしその不安は解消されるどころか、益々不安になり、いつしか好戦的な心が広がるでしょう。
それは、戦争へと移行してしまえば、黙示録の世界になってしまうかもしれませんよね。
自分の存在証明は、管理される事で得るのではない事を、アフリカの人達は証明します。
そして、神様はアブラハムに名を聞かれた時こう答えられました。
「わたしは、在るだ。」
存在は、自分自身が、わたしは在ると宣言するとき、確実に存在出来るのだと感じます。
それは、生きている事の確信であり、自分自身の霊を確信する事でもあるのだと思います。
霊には番号なんて付けられません。
「風は、思いのままに吹く」のですから。
道子さん、決してくだらないコメントではありません。
返信削除くだらないコメントやブログは、他人や違う思想、セクトを批判するものでしょう。
どんなに悪いと感じる事であっても、この世の事であり、人が何か心を動かされた事ですから、何故、自分はそれを悪いと感じ、何故、それを書いた方はそれを正義と感じるのかを
心に納め思い巡らせば、たとえ悪いとしても、霊魂には善いものに変化すします。
くだらないコメントでもそうなのですから、道子さんのコメントは宝の様な言葉ですよ(*´∀`*)
あら、ホスチアさん、優しいコメントをありがとうございますm(__)m
返信削除いただきました最初のコメントは、とても興味のあるお話でした。
私が住んでいるところは、縄文時代の発掘物も多く、自然の中に住んでいるようなものです。現在は山間部ですが、太古は海でした。我が子が小さな頃は、よく化石採集に行き、山の地層の大きなうねりを見て驚いたものでした。自然の中にいると、実生活で生きている時間の流れと違うところに自分が居る、と感じます。自分に与えられた肉体や名前から解放されているのでしょうかね。地球時間の流れを目の当たりにすると、自然は驚異で、そして美しいです。
アフリカの人達は、自然との関わり合いの中で、互いの存在価値を認め合うことができているのだと思います。
自然からかけ離れた文明(物質)社会に生きると、一見快適なようでも、実は自分の存在を限定していくのでしょう。自然が減って人口密度が高くなると人間関係も希薄になるように思います。
文明社会(涙)に生きる私たちですから、ホスチアさんがおっしゃるように「不安」になったり「恐れ」を持つようになるのでしょうね。この意識が集団意識になると結果的に争いを招く…ですか。残念だけど私もそう思います。そして私自身、この国がバランスを崩しながら進んでいることを不安に思っています。こんな私の意識もマイナス意識に加担しているかもしれないなぁって思うのですよ…
>「風は、思いのままに吹く」のですから。
って神の意志ってことですか??なんでしょう?
✿道子さん✿御返事有難うございます。
返信削除震災で、その快適の裏側に危険が確実に存在していた事を日本人は思い知りました。
この大いなる気づきを無駄にしてしまったら、亡くなった多くの方に申し訳ない。
「風は思いのまま吹く」はヨハネ福音書3章1節から記載されている、ニコデモとイエズスの会話の部分を読んで戴ければ解ると思います(*´∀`*)
ホスチアさん、久しぶりに聖書を引っ張り出してきました。う~ん…最初は、例え肉は縛られることはあっても、目には見えない霊は自由であり、目に見えるものさえも動かす、くらいに思いました。でも考え込むと、他の解釈も浮かんできて。それで、ネットで調べたら(^_^;)ますますわからなくなってきました。
返信削除結論、読んでも解りませんでした…
ホスチアさんの大いなる気づき。何をすべきだとお思いになりますか?
大いなる気づきは、神は生きている者の神であると言う事です。これも福音の主の御言葉です。
返信削除それは、生きて行くと言う気づきです。
人間として、神の被造物とした生かして戴いている事。
人は自然の支配者ではない事。
そして、亡くなった尊い命を、忘れない事。
それら全ては、祈りがなければ実感出来ない事。
それら全ては、愛がなければ成し得ない事。
出来る事は、小さな事です。
夜、寝る前の少しの間、自分と震災を想い祈る事を毎日欠かさず行う事で、必ず日本は変わると感じます。
そんな小さな、けれど多くの祈りを、愛の神は決して無駄に為さる訳がないのですから。
>大いなる気づきは、神は生きている者の神であると言う事です。これも福音の主の御言葉です。
返信削除これ、すごい言葉ですね。
ホスチアさんは、被災地に実際入られたのですね。写真の建物が、まるで悲鳴を上げているように見えました。
>人は自然の支配者ではないこと
そうですね。アイヌ民族の萱野さんは、生前、原発を作ることは、「トイレのないマンションを作るようなものだ」「天に向かって唾を吐くようなことだ。吐いた唾は必ず、自分の顔に落ちてくる」と話されておりました。私も快適な生活にすっかり浸かり、原発の現実に今日まで目を向けることはありませんでした。
実はトイレのないマンションに入居しているのが日本人かましれません。
返信削除近くのコンビンはトイレ掃除に大変で、それでもマンションの廊下はとんでもない事になっている
けれど、自分の部屋だけは綺麗でありたいと願い、決してポータブルトイレすら置こうとしない・・・
でも、愛はそうじゃないのでしょう。
どうぞ俺の部屋をトイレにして下さいと希望する事なのだと感じます。
支援は、与える事ではなく、苦しみを共に担う事だと知りました。
小さな祈りも、僅かな時間、しかし自分の時間を祈る時間に差し出す犠牲は、苦しみを担う事が出来る小さな、けれど確かな支援だと感じます。
そうですね…
返信削除自分は傍に行ってお手伝いをすることが出来ないけれど、毎日現世を憂う時間が確実にあるので(笑)、その時間を愛すべき人に心を寄せる時と替えればよいですね。
ホスチアさん、ありがとう。
「風は思いのままに吹く」ですか…?
イエズス様に「風は思いのままに吹く」と言われたニコデモは、きっと余計に解らなくなった事と思います。
返信削除人は様々な決め事を作り、どんどん不自由になってしまう
けれどそれは、より良い社会環境を作りたいとの思いからなのが悲しい。
どんなに思いのままに振舞っていようと、愛であるなら、そんな決め事など必要ないのでしょう。
福音はその愛の掟で貫かれた信仰の書です。
だから、信仰を持っていなかったニコデモは理解できなかった、ニコデモはファリサイ派の律法学者でもあったのに
、神様はその真理を知識のある者や権威のある者には、その真理を隠される。
無学な貧しい者には恩寵を御与えになられる。
あのクリスマスの晩に羊飼い達に天使のコーラスをつけて
主の降誕を御知らせになった様に・・・
だから、感じる、「風は思いのまま吹く」その言葉に微笑むのです。