奉献生活に招かれる事を
召命と言う。
修道者はこの生活を行うにあたり、3つの誓願を立てる
立てる相手は勿論、神。
清貧、貞潔、従順これら3つの意味合いは修道会で若干異なるのかもしれないが
基本的には同じであろう。
この3つ、世の中で暮らす人から見れば不思議で、こんな事を誓って暮らすなど
変な奴となるのかもしれない。
俺も此処に居なかったら、そう思っていただろう。
カトリック信者の方であれば、理解も為さって下さるだろうが、信仰を持たない方には
正に、奇妙でそら恐ろしいと思われてしまうのだろか・・・
来月から修練に入る。
だからろうか、近頃は自分自身の召命を黙想するし、念禱も気づくと召命を主に問うてる
この奇妙な生き方になんで俺は疑問すら持たないのだろう
あれ程、遊んでいた男が、なんの苦しみもなく、この生活を喜べるのだろう
そうして自分の思考を過去に戻すと、残っているのは、人を傷つけた痛みと悔いる思い
あの時の喜びも快楽も砂の様に味気なく、その味すら忘れてまった様に思える。
心に残る喜びは、霊と霊の語らい。
優しさ、暖かさ、思い遣り・・・きっと人間の本性は霊なのだ。
霊として存在し合って交わる時、愛が燃える。
漠然とだけれど、俺はこの愛に招かれのでしょう。
唯一の愛。
この愛以上の愛もなく、それ以下もない愛に
御父と御子の愛の応答の炎の中で迸り無限に放たれる聖霊。
俺にどんな賜物が与えられているのかは判らないけれど、
この愛に招かれ捕らえられた事は解る。
俺の命は、愛に招かれた。
愛に招かれ、愛となる事が出来た時、俺は命に入るのだと
それが俺の召命なのだと
まだ霧にぼやけ薄暗い夜明け前の様な画像を見詰めるのです。
でもこの召命、みんなが招かれているんだけれどね
「わたしは、誰一人として孤児にはしない。」、と。
イエズス様に逢いたい・・・
でもこの召命、みんなが招かれているんだけれどね
「わたしは、誰一人として孤児にはしない。」、と。
イエズス様に逢いたい・・・
今日のホスチアさんのブログ
返信削除優しくてあったかい感じがしました。
今までで一番好きかもしれません。
心の中にすーっと入ってきました。
こうして本来の姿に戻っていくのですかね。
あれ、明日からおでかけでしたっけ?
もしそうでしたら、お気をつけて!
✿道子さん✿コメント有難うございます。
返信削除ボランティアには今夜の夜行バスで向かいます。
そちらも寒いのでしょうが、被災地も寒いみたいで
寒さにめっぽう弱いんで、ちょっと不安(´;ω;`)
でも、精一杯頑張ってきます。
ノビシアの時、三誓願の講話の中で、三誓願は愛の鎖、「もうあなたとは絶対離れませんよ」という愛の鎖ってならって、嬉しくなりました。
返信削除✝シスター✝コメント有難うございます。
返信削除『わたしの軛は負い易い』そう主は言われました。
俗世の中で欲望の軛を架せられていた自分を思う時、この言葉はなんて優しいのだろうと感じます。
愛によって縛られれるなんて、幸福そのもです。