水曜日, 2月 29, 2012
火曜日, 2月 28, 2012
月曜日, 2月 27, 2012
日曜日, 2月 26, 2012
土曜日, 2月 25, 2012
ありがとう・・・一年目の被災地パート2
修道院に戻ってパソコンを開くと、嬉しいメールが沢山入っていました。
このブログで知り合った方達からの、嬉しいメールです。
洗礼への道が閉ざさされてしまったっと落胆されていたSさんが、御紹介した神父さまから
洗礼を授けて戴ける、しかも今年の御復活祭にとの事。
召命の道が危険に晒されてしまったと、悲しんでいたFさんが、無事に函館の修道会に入れる事。
御両親との関係にずっと苦悩されていたLさんが、春から御両親と暮らすとの事。
なんて、神様は優しくって愛に満ちておられるのでしょう!
被災地で、落胆した事もありましたが、それ以上に被災地に俺は沢山の恵みを戴きました。
これも、神様の優しさと愛。
感謝のできる自分に変化させて下さった事に、心から感謝です。
だから、声を大にして言うのです。
ありがとう。
全部抱きしめて
ありがとう。
止まったままの時・・・一年目の被災地
津波から1年経った岩手県大槌町に入った。
カリタスジャパンと長崎教区の合同で運営するボランティア・ベースが大槌町の中心部に位置する被災したビジネスホテルを改修し活動している、今回はそのベースに行かせて戴いた。
正直、期待していた。
半年程前に南三陸に行った時には全ての被災された方々が仮設住宅に
転居され、生活の不安が少し解消されているのかなと感じた、そして
1年が過ぎているのだから瓦礫と呼ばれてしまった多くの建物は
撤去され、民家や店舗、各施設などが建築され動き始めているのだろうと。
でも、違った。
時は、止まったままの様に其処に在った。
ボランティアベースの裏手に在る建物は、あの日まま其処に在った。
天井を吊るす軽量鉄骨は無残にまがり、垂れている。
壁の断熱材の硝子繊維は埃とヘドロで黒く爛れたまま、部屋の隅には流れ着き、
澱んだ川の様に人々の生活の痕跡が沈殿している。
そして、建物の壁面に付けられている時計は、あの時間を指したまま
二度と動く事はないのだ。
辛うじてその建物を残す店舗の中は、生々しい恐怖を伝えてくれる。
それは、立っている事が出来ない程に悲しい。
大槌町の中心部、何もない人影もない、荒涼とした祈りの匂いだけが広がっています。
流された家族にでしょうか
基礎だけになってしまった住居には
其処かしこに花が手向けありました。
復興には多くの問題が巨大な壁の様に立ち塞がっています。
支援もそうしたシステムの中に埋没してしまいそうな、苦しみを実感しました。
ひとりのボランティアには、そんな大きな力に立ち向かう事などできませんが
何かしたいと願い此の場所に立つ時、感じた事があります。
望まれているのは、物でもお金でも無いのです。
寄り添って、痛みを少しでも共有する事なのだと感じます。
ベースの近くに仮小屋を建て、ガソリンスタンドを再開されているオジサンが話しました
「こうして、瓦礫にいつまでも囲まれていたら、希望なんて持てない。
新しい建物が建ってくれたら、どんなに励まされるか・・・」
瓦礫の問題もあります。
関東と東海の間に位置する、S市が瓦礫の受け入れを発表した時には、本当に町民が喜んだそうです。しかしS市の市民や周辺住民方の反対運動で、その計画が頓挫してしまって、希望の光がひとつ消えてしまったと・・・そしてポツリと呟きました。
「同じ日本人なのに・・・」
余りにも広範囲な災害は全ての人心を納得させる良策などないのかもしれません。
けれど、この同じ日本の中に、絶望しかけている町が人が沢山存在していて、あの津波からまるで時が止まったように悲しみと苦しみに喘いでいます。
ひとりが出来る事は、からし種より小さいでしょう。
でも、寄り添う事、忘れない事、それは大きな希望を生む筈です。
神は愛です。
俺達は、その神の似姿として創造されています。
ならば、俺達は愛です。
からし種より更に小さな愛ですけれど、持ち寄って寄り添って抱きしめて
そう、祈り続けます。
時を進めましょう。
月曜日, 2月 20, 2012
日曜日, 2月 19, 2012
vocation 召命
奉献生活に招かれる事を
召命と言う。
修道者はこの生活を行うにあたり、3つの誓願を立てる
立てる相手は勿論、神。
清貧、貞潔、従順これら3つの意味合いは修道会で若干異なるのかもしれないが
基本的には同じであろう。
この3つ、世の中で暮らす人から見れば不思議で、こんな事を誓って暮らすなど
変な奴となるのかもしれない。
俺も此処に居なかったら、そう思っていただろう。
カトリック信者の方であれば、理解も為さって下さるだろうが、信仰を持たない方には
正に、奇妙でそら恐ろしいと思われてしまうのだろか・・・
来月から修練に入る。
だからろうか、近頃は自分自身の召命を黙想するし、念禱も気づくと召命を主に問うてる
この奇妙な生き方になんで俺は疑問すら持たないのだろう
あれ程、遊んでいた男が、なんの苦しみもなく、この生活を喜べるのだろう
そうして自分の思考を過去に戻すと、残っているのは、人を傷つけた痛みと悔いる思い
あの時の喜びも快楽も砂の様に味気なく、その味すら忘れてまった様に思える。
心に残る喜びは、霊と霊の語らい。
優しさ、暖かさ、思い遣り・・・きっと人間の本性は霊なのだ。
霊として存在し合って交わる時、愛が燃える。
漠然とだけれど、俺はこの愛に招かれのでしょう。
唯一の愛。
この愛以上の愛もなく、それ以下もない愛に
御父と御子の愛の応答の炎の中で迸り無限に放たれる聖霊。
俺にどんな賜物が与えられているのかは判らないけれど、
この愛に招かれ捕らえられた事は解る。
俺の命は、愛に招かれた。
愛に招かれ、愛となる事が出来た時、俺は命に入るのだと
それが俺の召命なのだと
まだ霧にぼやけ薄暗い夜明け前の様な画像を見詰めるのです。
でもこの召命、みんなが招かれているんだけれどね
「わたしは、誰一人として孤児にはしない。」、と。
イエズス様に逢いたい・・・
でもこの召命、みんなが招かれているんだけれどね
「わたしは、誰一人として孤児にはしない。」、と。
イエズス様に逢いたい・・・
金曜日, 2月 17, 2012
水曜日, 2月 15, 2012
そして1年目が近づく・・・
去年の四旬節に被災地に入った
津波から約1ヶ月後だった
余りにも衝撃を受け
その日は、カメラのシャッターが切れなかった
この写真は翌日に撮影した
釜石鉄鋼の工場
祈りながら歩く
だた、祈りながら
他に何が出来たかのか
あの中で、独りなってはいけません
けれど、きっと
誰もが、その独りの時間を体験する
無残と絶望
そして
或る臭い
でも、此処に戻って来なければと
此処に立った者は
誰もが感じる
亡くなった全ての方へ出来る事
忘れない事
祈る事
今、生きている方へ出来る事
共に生きる事
祈る事
今日、東京のカテドラルにて
日本カトリック司教協議会主催
東日本大震災一周年を前にして
「犠牲者追悼と復興祈願ミサ」が行われます。
心をあわせて
アーメン。
月曜日, 2月 13, 2012
Cantiques ・ 雅歌にて
シャガールの雅歌を描いた作品のひとつは
rouge
聖書の中で最も霊的な文学と謂われる「雅歌」
聖書は驚きに満ちていると昨日書いた
そう、初めて雅歌を読んだのは高校生の頃だったと思う
印象は
erotic
こんなものが聖書に入ってるんだと
驚く
聖書は解釈がなされる
それは、10人の神学者が解釈するば
10通りの解釈が存在し
そのどれもが正しい
そんな、聖書の中で雅歌ほど解釈が多彩な文学はない
そんな雅歌解釈は大筋で2つに別れる
ひとつは、文面通りに解釈し、そこからソロモン王の心や歴史的考察を行う
聖書学的アプローチ
もうひとつは
比喩的な解釈
ここに神秘神学の喜びがある
キリスト教は旧約に書かれている予言的文学、神秘的文学の中に
キリストを見る
雅歌に聴くキリストへの羨望は
花婿への切実な恋慕の情感で表現される
男は女に、女は男に何を求めるのだろう
優しさ、強さ、暖かさ、楽しさ、快感、美しさ・・・
言葉にしてみると
言葉に出来ないものを求めている様な気がした
まだ16たっだ俺が読んだ雅歌は
恋へ憧れるには十分な言葉の宝庫だった。
彼女の頭を抱える時
髪の匂いは、ミルラの芳香
その胸の高鳴りは
切ない
年を経て、尚、切ない
しかしそれは
この世に切ないのではない
霊魂の花婿への切なさ
愛さずにはおられない
キリストへの想いで震えるばかりに
切ない
幼子の様に貴方の腕に抱かれ
貴方の想う場所に連れ去られたい
雅歌読む度に
愛に震える
シャガールの雅歌はrouge
貴方の雅歌は?
君の雅歌は?
ひとりの雅歌
10人の雅歌
100人の雅歌
1000人の雅歌
雅歌に触れた人の数だけの雅歌が産まれる
そして
誰をも
愛に傷つくのだろう
そして
愛に震える
この言葉によって
愛は死のように強い
私を刻みつけて下さい
あなたの心に、印章として
あなたの腕に、印章として
日曜日, 2月 12, 2012
Lire l'Evangile ・ 福音書を読む
修道院には当然の事だけれど、色々な翻訳の聖書がある。
日本語は勿論の事、原文聖書。
旧約ならヘブライ語、新約ならギリシャ語。。。読めないけどね(´;ω;`)
他にも、世界各地の言語に翻訳された聖書と多彩です。
日本語訳も様々あって、比較するのに役立つのです。
毎日、聖書を読むのだけれど、毎日、驚く。。。
すぐ眼の前に、主が立って居る様に感じてしまう時の驚き。
俺なんて、きっと気づいてもらえないと落胆する時に
声を掛けて下さる様な一節に出会う驚き。
それは、違う翻訳を読む時に、起こる不思議でもある。
不思議と云えば、記憶は本当にいい加減で、この時の主の言葉はこうだったと思い込んでいたりすると、実は微妙に違っていて、それを色々な聖書で調べたりする。
すると、思い込みと合致する翻訳や、それ以上の気づきを与えてくれる翻訳に出会ったりする。
最近は、「ヨハネ福音書」が好きで読んでいる。
ロザリオと聖書がなかったら、とても不安になるのです。
無人島に、一つだけ持っていけるとしたら
フランシスコ会訳の聖書を持っていくでしょう。
ロザリオは無人島で作れそうだから。。。(*´∀`*)
土曜日, 2月 11, 2012
金曜日, 2月 10, 2012
いつもポケットにショパン♪
のだめカンタービレを見てたら
想い出したマンガがありました。
もう随分むかし
子供の頃
母親は別冊マーガレットを毎月買って読んでいて
俺も読んでたわけで
大好きだったマンガが有りました。
「おしゃべり階段」
くらもちふさこさんの描かれたマンガです
で、すっかり、くらもちファンになってしまった俺は
その次に連載されたマンガ
「いつもポケットにショパン」
にもハマってしまったのです。
でも、マンガは音がありませんから
その「ショパン」が解からず
母親に、ショパンの曲が聴きたいと、せがむのでした。
そんな或る日、母親が1枚のレコードを買ってきてくれます。
Fujio Hemmingの演奏のLPレコード
その、ふじこさんの演奏を聴きながら
きしんちゃんのノクターンはこれだったにょかぁ・・・
と、マンガの中から音が溢れてくる思いがするのでした。
「いつもポケットにショパン」の中で
主人公あさこのセリフで覚えているのが
2つある
子供だった、あさこと仲良しのきしんちゃんは一緒に
ピアノ教室に通っているのだけれど
発表会が迫ってきた或日
きしんちゃんが、あさこに聞きます。
「ねぇねぇあさこちゃん、発表会には何着るの?」
すると、あさこは
「あかいワンピース。」
と、答えるのです。
そしてもう1つ
あさこはきしんちゃんと一緒に演奏するのが望みです
それを、あさこはこう言いうのです
「それは、わたしの宿望なのです。」
子供の俺には何処か恐ろしげな文字に見えた。
人が人を慕い愛する時
それは
宿望なのでしょう。
そうでなければ、人は人を慕い愛し続けられない。
いや、愛は本来そうした在り方なのかもしれない
それが、神を求める生き方であっても・・・
だから
「それは、俺の宿望なのです。」
木曜日, 2月 09, 2012
水曜日, 2月 08, 2012
préparation ・ 準備
来月から修練に入ります。
そろそろ、こちらの修室を片付け始めないと、いけません。
今月の20日から被災地ボランティアに向かうので、余り時間がないのですが
何時もの様に、お尻に火がつかないと動かないこの性格なので、なかなか思うように進まない
物理的な片付けも去ることながら、霊魂の準備も行わなけれなりません。
修練着衣が3月19日に長崎で行われるので、その前に黙想に入りますが
今から心を整えて置かないと感じています。
黙想は指導為さって下さる司祭の方がおられますので、黙想テーマや御指導を戴けるので
こちらに居る間は念禱を中心に行なってみます。
その念禱ですが、かなり我流な方法で行なっていましたので、
今一度、参考書などを読んで見る事に致しました。
俺が所有している念禱の指導書は4冊程度です。
男子カルメル会著作の物が1冊、それとアヴィラの聖テレジアの「霊魂の城」・・・これも念禱の書に入るかなと思います。
で、今回、ちゃんと読もうと思ったのが、写真の2冊。
1冊は厚い読み応えのある「念禱の種々な道」
著者は改革シトー会大修道院長・ドン・ヴィタル・ルオデー
翻訳は当別トラピスト修道院・トーマス高島源一郎
エンデルレ書店からの出版
もう1冊は薄い祈祷書程のサイズ「念禱の三つの道」
著者はウゴリン・ノル
翻訳は聖パウロ修道会、だから出版は中央出版(現・サンパウロ)
「念禱の種々な道」は段階を踏む念禱に於ける、様々な内的変化や障害、徳などを事細かに解説して下さっている書です。
一方、「念禱の三つの道」は、要点を纏めていながらも、念禱の概念と実際のやり方を様々なケースを用いて解説しています。サイズもポケットに入る小型な1冊なので、携帯し繰り返し読む事を目当てにして編集されている感があります。
この2冊を、ぼちぼち読みながら、「孤独」に霊魂を置く事にします。
月曜日, 2月 06, 2012
小さな黙想
毎月、月初めの週末、修道院では「静修」の時がある。
何処の修道会でも設けられている「時」でしょう。
土曜の昼過ぎから翌日の昼食までの完全なる沈黙の時です。
観想修道会では日々、沈黙なでしょうが、事業体を持っている修道会や活動修道会では、完全沈黙は事実上不可能ですから、こうした「時」を持つのだたと感じます。
この静修では、小さな黙想会を共同体で行います。
外部の修道会から指導司祭を御招きする事もあります
実はこの静修、此処に来た当初はどうしてよいのか解らず困惑していました。
まず、沈黙が困りました・・・
食事の時にも、黙って黙々と食べるのが奇妙に感じて、笑いそうなってしまうし
「おはよう」も「いただきます」も言わないのに抵抗もありました。
しかし、それは俗世の常識に囚われている事でもあったのです。
「常識」とは正しく常識で、それ自体に疑問を持つ事などこの生活に入る前は余り無かったのです。
俗世の常識は、其々の現場(職場)で異なるので、新しい環境ではそこの「常識」が存在したりするのですが、「おはよう」や「いただきます」を言わない常識は皆無でした。
そして「完全なる沈黙」などこれまた皆無でしたから、戸惑いましたし何か座りの悪い椅子に座っれいる様な感覚でした。
けれど、或時から不思議な事に気づくのです。
人は言葉を何の為に使っているのでしょう。
大きく言えばコミュニケーションの手段として言葉を使います。それは情報の伝達でもあります。
自分の思いや考えを相手に伝える、また相手の考えや思いを知る。
その為の言葉です。
けれど、その相互の情報は何処まで正確なものなのかなと、考えしまう時があります。
本心はこうなんだけど、其れを言ってしまうと相手と上手くいかなくなる事もあって
正確に言葉にしない場合も多々あるかなって思います。
こうして言葉は極端に言ってしまえば、仮初の人間関係を恙無く遂行する潤滑油となってしまっているのかもしれないと感じます。
しかし沈黙には、この言葉の潤滑油は存在しません。
それでも共同生活を営んでいるのですから沈黙と云えども「無視」をする訳にはいきません。
其処に居る兄弟が今、何を望んでいるのか、何を感じているのを「感じ」なければならないのです。
僅かな大気の変化や、兄弟の霊から香る想いを霊のよって捉えなければ「それ」を知る事が出来ないのです。
この、霊から香る想いを、俺は自分勝手に名前を付けています。
「霊香・れいか」・・・この霊香ちゃんが雄弁な言葉なんかよりも兄弟の心の内を語ってくれるんです。
常識的に「おはよう」と言い、鸚鵡返しの様に「あ・・おはよう」と、その朝の一瞬を流してしまえば、それでその「おはようは」言葉の往復で終わってしまうのです。
けれど、沈黙の時の朝、言葉を交わさない中で、兄弟の霊が香ります。
何か悩んでるのかな・・・体調が良くないのかな・・・何か黙想中みたいだな・・・
兄弟達の霊香ちゃん達が、教えてくれのです。
静修の時は、普段聞こえない兄弟達の声が修道院の其処かしこに浮遊しているのです。
土曜日, 2月 04, 2012
lapin solitaire ・ 淋しい兎
友達がいなかったわけじゃない
けど
周りと違うって感じてた
落ちこぼれってわけじゃなかった
けど
浮いた存在だった
藻掻くから
苦しいから
結果は最悪なんだよね
母さん
あなたが心配しなかったとは思ってないよ
あなたが愛したのは
たぶん
俺じゃなかった
あのさぁ
世界中の誰にも理解されなくても
そんなの
構わなかった
あなたに理解されたいと
そう
藻掻くから
苦しいから
結果は最悪だったね
違っていたって構わないって
言って欲しかったな
兎は淋しと死んじゃうんだって
あの時
母さんが兎だったんだね
兎は俺だって思ってたのに
理解していなかったのは
俺も同じだったよ
ねぇ、神様がたったひとつ夢を叶えてくれるとしたら
俺ね、もう一度
母さんの子供に産まれたい
母さん。
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