木曜日, 3月 08, 2012

行ってきます。











行ってきます。

一年後にブログの更新致します。


沢山なの御祈り
心から感謝です。

俺も、みんなの事を
ずっと御祈りさせて戴きます。

心をこめて。。。





火曜日, 3月 06, 2012

大切なもの








長崎に行く日が後、数日とりました。

修練に入ればネットは使えません
メールも出来ないのです。

それもあってか、お別れの御挨拶を為さって下さる方のメールが入ります。
1年間なのですが、今生の別れみたいな感じになってしまわれる方も居られ
愛されているなぁ。。。などとニマニマしてしまいます(*´∀`*)

大切にされていた、御メダイやロザリオを下さる方も居れれて恐縮してしまいます。
そんな風なので俺もこのまま誰にも再会出来ないのかも・・・なんて想ってしまい
形見分けみたいに大切に使っていた物を差し上げてたりしちゃいます。

この大切な物。。。文字通り物なのですが、
気にっていた物から差し上げたいと思い
気がついたら、大して大切ではなかった物ばかりが手元に残っています
でもまだ、お気に入りストックはあるのですよ

(どんだけ物を持ってるんだぁ~)

そんなツッコミが入りそうですが、ホントよく集めたものと我ながら呆れます(笑)

それでも、大切な物を差し上げると、喜んで下しさいます。

その笑顔に触れる事の方が、物とは比べ物にならない程に素敵な事です。

大切な物を、誰にも触れさせず自分だけの喜びとするなら
この笑顔には出逢えない、この宝物には辿り着けないのです。

大切なのは、己ではなく、笑顔の誰かなのだと知る事は永遠にないのでしょう。
そして、物を己の満足の為に持ち続ける事では霊魂の自由は叶えられないのでしょう。

御父は、最も大切な御子を俺達に渡されました。
そして聖母も同様に、御父と御子の御旨に信頼し、愛する我が子を世に渡された。

俺は、どこまで大切を差し出せるだろう

この命を、誰かの為に惜しみなく差し出せる愛を持つ事が出来るだろうか

大切なものは、あなたですと、言える自由を得ることが出来るだろうか

その愛は、きっと俺の宿望なのです。



あなたが、大切なんです。



そう言って命を差し出せる者に俺は成りたい。











月曜日, 3月 05, 2012

La vie monastique étrange





奇妙な暮らしが在った

昨日まで見ず知らずの者を兄弟と呼び

結婚もせず

自分も物を何も持たず

全てに「はい」と言う

それは

こんな不自然を

自然に寧ろ喜びとして受け入れる

自分が

奇妙だけれど

これは


なのです。




さてさて、こんな奇妙な生活を望んでいる方

そう、あなたです

恐れずに

愛となりましょう

奇妙な愛に絡め捕られてしまいましょう

十字架に抱きつく

無邪気な聖女のように。











日曜日, 3月 04, 2012

prière ・ 祷り。









まるで独り言の様に始めたブログが
いつの間にか多くの方に読んで戴いて、心から感謝の想いでいっぱいです。

それは、多くの方の祷りを感じる事でもあります。

俺の為に御祷り下さる、その祷りに支えられている事。
苦しみを共に祷って下さいと、叫ぶ霊魂の祷りに応えようと祷る事。
苦しみの中に在りながらも、同じ様に苦しむ霊魂の為に祷り合う事。

御聖堂の中、職場のデスクの上、街の雑踏の中、キッチンに立ち
笑いながら、怒りながら、泣きながら
切ないと想いながら、淋しいと想いながら、愛しいと想いながら
神様に信頼し、或時には落胆しながら、揺れながら、ぼろぼろになりながら
躓いて、倒れて、膝をついて
照れ笑いしながら起き上がって
俯いて、また顔を上げて

こうして、人は祷るのでしょう。

真っ直ぐに、唯、真っ直ぐに愛する事、その為に祷るのでしょう。




このブログを訪れて下さった全ての方の祷りに感謝です。
そして、その祷りに心を併せて祷ります。

主イエズス・キリストの御名によりて。アーメン✝




金曜日, 3月 02, 2012

或、召命









ひとりの女性が修道院に尋ねて来られた

以前、召命と修道会の事で御相談に来られた方です

このブログを通して御知り合いになって戴き、今は霊的兄弟姉妹として祈り合っています。

修道会に入会するという行為は様々な悩みや障害が、少なからずあったりします。
けれど、その悩みや障害の殆どが外的要因であり、また酷く人間臭い事でもあるのです。
奉献生活を希望し主イエズスに捕われてしまった者には、
自己の内面的悩みも障害も存在しないのですから。

けれど、この外的な障害は時に乗り越えられない程に困難な事に思えてしまうのです。
それは、主を愛した者には死の宣告の様に絶望してしまう程に・・・

そんな中で、気づくのです。
神は善いものしか渡されない事に。

その、困難の真下で、多くの人間的愚かさを垣間見せて下さいます。
それは、自己の霊魂の善き糧となるでしょう。

そして、もう無理、もう駄目と思ったそんな困難を神様はいとも簡単にクリアして下さるのです。
どんなに苦しい状況であろうと、神様に信頼し全てを委ねる事、幼い子供の様に両手を挙げて
全てを委ねた、その時に神様は、望みを聞き入れて下さる。
そして、その望みは神様の望みでもあるのですから。



春、その女性は函館の修道院に行きます。

両御腕を大きく広げた聖母の御像の待つ修道院へ

彼女が、志願期そして修練を終え、終生誓願を竪て・・・キリストの花嫁にと嫁ぐ事を
この先、ずっと祷っていくでしょう。

それは、俺の召命の励みでもあります。

この狭い日本のカトリックの世界ですから、風の便りを聞くこともあるでしょう。
たとえお互いがどんな状況であっても、それを知らなくても
病める時も健やかなる時も、祷っている兄弟姉妹の存在が、大きな支えとなるでしょう。

同じ葡萄の樹の枝、しかも小さな枝同士だけれど、いつか葡萄の実をつけましょう。

その味は同じ、キリストの香りと味であります様に。

主イエズス・キリストに寄りて、願い希望致します。

俺の愛する姉妹よ、共にキリストの御足跡を見失う事なく歩める様に
祷り逢って参りましょう。

愛する姉妹に感謝。キリストに感謝。




木曜日, 3月 01, 2012

Nostalgie de la peinture à l'huile








子供の頃、絵画教室に通っていた

水彩絵具で描いていた俺にとって
油絵具は憧れだった。

小学5年になった時に
パパ先生から、
あ、この絵画教室は、パパ先生の奥様も画家で、ママ先生、
美大生の娘さんをマミ先生と呼んでいました。

で、パパ先生から「油をやるか?」と聞かれ時には、本当に嬉しくって
即座に「はい。」と答えた。

注文し届いた油絵の道具は、俺の宝物だった。

太くて大きい絵具のチューブ
長い筆の先は堅い毛
パレットの端にはめて使うオイル壷
そして、木のパレット
其れ等を入れる絵具箱
絵具箱の蓋を開けると、あの油絵具の匂い
先生のアトリエの匂いと同じ



あの頃、毎日描いていたんだよなぁ


イーゼルにキャンバスを立てて、いっちょ前の画家さんになったつもりで
幼稚園の時にかぶっていた、黄色いベレー帽なんてかぶって。


去年の夏、長崎の修道院に1ヶ月行っていた時に、見つけたのです。

これから行く修練院の倉庫の中に、油絵の真新しい道具が幾つも在るのを。

何十年振りかに、油絵・・・描いてみようと思います。



油絵具の匂い・・・永遠の宝物。






水曜日, 2月 29, 2012

雪のマリア様とも暫しの御別れ









雪に飾られて

可愛いマリア様

冷たい雪すら暖かい

来年はもう雪のマリア様には
御逢い出来ない

どうか愛を御護り下さる様に
尊い御身の最愛の御子イエズス様に
御祈り下さい。




中庭の小さな梅の木
雪に磨かれ
頬に薄紅
春に恋する乙女の様。




東京は雪でした。



火曜日, 2月 28, 2012

passion










主の痛みを知りたい

身体の痛み

心の痛み

その全てを知りたい




被災地の何もない街を歩いた

ロザリオを繰りながら

きっと、この泥の中に今も苦しみながら
もがき続けている霊魂

冷たい海の底に
家族を思い、此処で死ねないと
叫び続ける霊魂

それは、無限の孤独なのでしょう

被災地から戻ると何も出来ない自分に落胆する

苦しみを知りたいと想いながらも
今はこうして暖かい部屋に居る

この冷淡さ
俺は何者なのだろう

あの多くの霊魂の苦しみを愛せるのは
主、あなただけなのでしょう

主よ、あなたの痛みを知りたい

身体の痛み

心の痛み

その全てを。











月曜日, 2月 27, 2012

潜心へ・・・









騒めく心を委ねましょう

遥か彼岸の、彼の愛へ

信仰弱い我が身のために

どうか

祷って下さいませ










日曜日, 2月 26, 2012

Carême ・ 四旬節








心がざらついて

落ち着かない

不安ではないし

後悔でもない

四旬節だからだろうか

4年前の四旬節の時

そんな時期とは知らず教会に行った

灰の水曜日だった

何故、教会に行ったのだろう

そう、胸騒ぎがしたから

丁度、今の様に

その夜から夢を見た

そしてこうして修道院に居る。

あの、灰の水曜日から

人生が変わったのかもしれない

なら、この胸騒ぎ

新しい命に入る為なのかなぁ・・・


修練前に
新しい名前になるのです。








土曜日, 2月 25, 2012

ありがとう・・・一年目の被災地パート2





修道院に戻ってパソコンを開くと、嬉しいメールが沢山入っていました。

このブログで知り合った方達からの、嬉しいメールです。

洗礼への道が閉ざさされてしまったっと落胆されていたSさんが、御紹介した神父さまから
洗礼を授けて戴ける、しかも今年の御復活祭にとの事。

召命の道が危険に晒されてしまったと、悲しんでいたFさんが、無事に函館の修道会に入れる事。

御両親との関係にずっと苦悩されていたLさんが、春から御両親と暮らすとの事。

なんて、神様は優しくって愛に満ちておられるのでしょう!

被災地で、落胆した事もありましたが、それ以上に被災地に俺は沢山の恵みを戴きました。

これも、神様の優しさと愛。

感謝のできる自分に変化させて下さった事に、心から感謝です。



だから、声を大にして言うのです。




ありがとう。



全部抱きしめて
ありがとう。

















止まったままの時・・・一年目の被災地









津波から1年経った岩手県大槌町に入った。
カリタスジャパンと長崎教区の合同で運営するボランティア・ベースが大槌町の中心部に位置する被災したビジネスホテルを改修し活動している、今回はそのベースに行かせて戴いた。

正直、期待していた。
半年程前に南三陸に行った時には全ての被災された方々が仮設住宅に
転居され、生活の不安が少し解消されているのかなと感じた、そして
1年が過ぎているのだから瓦礫と呼ばれてしまった多くの建物は
撤去され、民家や店舗、各施設などが建築され動き始めているのだろうと。

でも、違った。

時は、止まったままの様に其処に在った。





ボランティアベースの裏手に在る建物は、あの日まま其処に在った。

天井を吊るす軽量鉄骨は無残にまがり、垂れている。
壁の断熱材の硝子繊維は埃とヘドロで黒く爛れたまま、部屋の隅には流れ着き、
澱んだ川の様に人々の生活の痕跡が沈殿している。
そして、建物の壁面に付けられている時計は、あの時間を指したまま
二度と動く事はないのだ。



辛うじてその建物を残す店舗の中は、生々しい恐怖を伝えてくれる。





それは、立っている事が出来ない程に悲しい。




大槌町の中心部、何もない人影もない、荒涼とした祈りの匂いだけが広がっています。




流された家族にでしょうか
基礎だけになってしまった住居には
其処かしこに花が手向けありました。




復興には多くの問題が巨大な壁の様に立ち塞がっています。
支援もそうしたシステムの中に埋没してしまいそうな、苦しみを実感しました。

ひとりのボランティアには、そんな大きな力に立ち向かう事などできませんが
何かしたいと願い此の場所に立つ時、感じた事があります。

望まれているのは、物でもお金でも無いのです。
寄り添って、痛みを少しでも共有する事なのだと感じます。

ベースの近くに仮小屋を建て、ガソリンスタンドを再開されているオジサンが話しました

「こうして、瓦礫にいつまでも囲まれていたら、希望なんて持てない。
新しい建物が建ってくれたら、どんなに励まされるか・・・」

瓦礫の問題もあります。
関東と東海の間に位置する、S市が瓦礫の受け入れを発表した時には、本当に町民が喜んだそうです。しかしS市の市民や周辺住民方の反対運動で、その計画が頓挫してしまって、希望の光がひとつ消えてしまったと・・・そしてポツリと呟きました。

「同じ日本人なのに・・・」




余りにも広範囲な災害は全ての人心を納得させる良策などないのかもしれません。

けれど、この同じ日本の中に、絶望しかけている町が人が沢山存在していて、あの津波からまるで時が止まったように悲しみと苦しみに喘いでいます。

ひとりが出来る事は、からし種より小さいでしょう。
でも、寄り添う事、忘れない事、それは大きな希望を生む筈です。

神は愛です。

俺達は、その神の似姿として創造されています。

ならば、俺達は愛です。

からし種より更に小さな愛ですけれど、持ち寄って寄り添って抱きしめて

そう、祈り続けます。

時を進めましょう。






月曜日, 2月 20, 2012

日曜日, 2月 19, 2012

vocation 召命











奉献生活に招かれる事を

召命と言う。

修道者はこの生活を行うにあたり、3つの誓願を立てる

立てる相手は勿論、神。

清貧、貞潔、従順これら3つの意味合いは修道会で若干異なるのかもしれないが
基本的には同じであろう。

この3つ、世の中で暮らす人から見れば不思議で、こんな事を誓って暮らすなど
変な奴となるのかもしれない。

俺も此処に居なかったら、そう思っていただろう。

カトリック信者の方であれば、理解も為さって下さるだろうが、信仰を持たない方には
正に、奇妙でそら恐ろしいと思われてしまうのだろか・・・

来月から修練に入る。

だからろうか、近頃は自分自身の召命を黙想するし、念禱も気づくと召命を主に問うてる

この奇妙な生き方になんで俺は疑問すら持たないのだろう

あれ程、遊んでいた男が、なんの苦しみもなく、この生活を喜べるのだろう

そうして自分の思考を過去に戻すと、残っているのは、人を傷つけた痛みと悔いる思い
あの時の喜びも快楽も砂の様に味気なく、その味すら忘れてまった様に思える。

心に残る喜びは、霊と霊の語らい。

優しさ、暖かさ、思い遣り・・・きっと人間の本性は霊なのだ。

霊として存在し合って交わる時、愛が燃える。

漠然とだけれど、俺はこの愛に招かれのでしょう。

唯一の愛。

この愛以上の愛もなく、それ以下もない愛に

御父と御子の愛の応答の炎の中で迸り無限に放たれる聖霊。

俺にどんな賜物が与えられているのかは判らないけれど、
この愛に招かれ捕らえられた事は解る。


俺の命は、愛に招かれた。

愛に招かれ、愛となる事が出来た時、俺は命に入るのだと

それが俺の召命なのだと

まだ霧にぼやけ薄暗い夜明け前の様な画像を見詰めるのです。



でもこの召命、みんなが招かれているんだけれどね


「わたしは、誰一人として孤児にはしない。」、と。



イエズス様に逢いたい・・・




















金曜日, 2月 17, 2012

片隅に春。











昨日は陽が暮れてから雪だった

修室は、すきま風で寒い

枕元に冷気が忍び込む

ここ数日は曇り空で

いっそう寒く感じる

けれど今日の午前中は陽が射し

窓越しに見る中庭は

なんとなく春

そんな修道院の中庭の片隅にある

細く頼りな気な梅ノ木に

可愛い花がほころんでいた

まだ蕾みが目立つけれど

そんな蕾みも

柔らかいピンク色

中庭には桜の大木が四本あるが

今年の桜の季節には

長崎だから、桜の花は見ることが出来ないけれど

可愛い梅の花が

「もう、春ですよ」って

「はい」、と

小さく頷いた。












水曜日, 2月 15, 2012

Prière de silence ✝ 沈黙の祈り









沈黙の祈りは 悲しい

沈黙の祈りは 切ない

沈黙の祈りは 愛おしいい

沈黙の祈りは 雄弁

沈黙の祈りは 強い

沈黙の祈りは 深遠




沈黙し祈る人は

こよなく 美しい。







そして1年目が近づく・・・












去年の四旬節に被災地に入った

津波から約1ヶ月後だった

余りにも衝撃を受け

その日は、カメラのシャッターが切れなかった

この写真は翌日に撮影した

釜石鉄鋼の工場

祈りながら歩く

だた、祈りながら

他に何が出来たかのか

あの中で、独りなってはいけません

けれど、きっと

誰もが、その独りの時間を体験する

無残と絶望

そして

或る臭い

でも、此処に戻って来なければと

此処に立った者は

誰もが感じる




亡くなった全ての方へ出来る事

忘れない事

祈る事

今、生きている方へ出来る事

共に生きる事

祈る事





今日、東京のカテドラルにて

日本カトリック司教協議会主催
東日本大震災一周年を前にして
「犠牲者追悼と復興祈願ミサ」が行われます。






心をあわせて


アーメン。




月曜日, 2月 13, 2012

Cantiques ・ 雅歌にて










シャガールの雅歌を描いた作品のひとつは

rouge


聖書の中で最も霊的な文学と謂われる「雅歌」

聖書は驚きに満ちていると昨日書いた

そう、初めて雅歌を読んだのは高校生の頃だったと思う

印象は

erotic


こんなものが聖書に入ってるんだと

驚く

聖書は解釈がなされる
それは、10人の神学者が解釈するば
10通りの解釈が存在し
そのどれもが正しい

そんな、聖書の中で雅歌ほど解釈が多彩な文学はない

そんな雅歌解釈は大筋で2つに別れる

ひとつは、文面通りに解釈し、そこからソロモン王の心や歴史的考察を行う
聖書学的アプローチ

もうひとつは

比喩的な解釈

ここに神秘神学の喜びがある

キリスト教は旧約に書かれている予言的文学、神秘的文学の中に
キリストを見る


雅歌に聴くキリストへの羨望は
花婿への切実な恋慕の情感で表現される




男は女に、女は男に何を求めるのだろう

優しさ、強さ、暖かさ、楽しさ、快感、美しさ・・・

言葉にしてみると
言葉に出来ないものを求めている様な気がした


まだ16たっだ俺が読んだ雅歌は
恋へ憧れるには十分な言葉の宝庫だった。

彼女の頭を抱える時
髪の匂いは、ミルラの芳香

その胸の高鳴りは

切ない

年を経て、尚、切ない

しかしそれは
この世に切ないのではない

霊魂の花婿への切なさ

愛さずにはおられない

キリストへの想いで震えるばかりに

切ない

幼子の様に貴方の腕に抱かれ

貴方の想う場所に連れ去られたい


雅歌読む度に

愛に震える


シャガールの雅歌はrouge

貴方の雅歌は?

君の雅歌は?

ひとりの雅歌
10人の雅歌
100人の雅歌
1000人の雅歌

雅歌に触れた人の数だけの雅歌が産まれる

そして
誰をも

愛に傷つくのだろう

そして

愛に震える

この言葉によって





愛は死のように強い




私を刻みつけて下さい

あなたの心に、印章として

あなたの腕に、印章として

























日曜日, 2月 12, 2012

Lire l'Evangile ・ 福音書を読む





























修道院には当然の事だけれど、色々な翻訳の聖書がある。
日本語は勿論の事、原文聖書。
旧約ならヘブライ語、新約ならギリシャ語。。。読めないけどね(´;ω;`)
他にも、世界各地の言語に翻訳された聖書と多彩です。

日本語訳も様々あって、比較するのに役立つのです。



毎日、聖書を読むのだけれど、毎日、驚く。。。



すぐ眼の前に、主が立って居る様に感じてしまう時の驚き。

俺なんて、きっと気づいてもらえないと落胆する時に
声を掛けて下さる様な一節に出会う驚き。

それは、違う翻訳を読む時に、起こる不思議でもある。

不思議と云えば、記憶は本当にいい加減で、この時の主の言葉はこうだったと思い込んでいたりすると、実は微妙に違っていて、それを色々な聖書で調べたりする。
すると、思い込みと合致する翻訳や、それ以上の気づきを与えてくれる翻訳に出会ったりする。

最近は、「ヨハネ福音書」が好きで読んでいる。



ロザリオと聖書がなかったら、とても不安になるのです。


無人島に、一つだけ持っていけるとしたら

フランシスコ会訳の聖書を持っていくでしょう。


ロザリオは無人島で作れそうだから。。。(*´∀`*)



土曜日, 2月 11, 2012

Notre-Dame de Lourdes











Aujourd'hui c'est l'anniversaire
de 

Notre-Dame de Lourdes







Prions le Seigneur. La prière du Rosaire






金曜日, 2月 10, 2012

いつもポケットにショパン♪












のだめカンタービレを見てたら
想い出したマンガがありました。

もう随分むかし
子供の頃
母親は別冊マーガレットを毎月買って読んでいて
俺も読んでたわけで
大好きだったマンガが有りました。

「おしゃべり階段」

くらもちふさこさんの描かれたマンガです
で、すっかり、くらもちファンになってしまった俺は
その次に連載されたマンガ

「いつもポケットにショパン」

にもハマってしまったのです。

でも、マンガは音がありませんから
その「ショパン」が解からず
母親に、ショパンの曲が聴きたいと、せがむのでした。

そんな或る日、母親が1枚のレコードを買ってきてくれます。

Fujio Hemmingの演奏のLPレコード

その、ふじこさんの演奏を聴きながら
きしんちゃんのノクターンはこれだったにょかぁ・・・
と、マンガの中から音が溢れてくる思いがするのでした。

「いつもポケットにショパン」の中で
主人公あさこのセリフで覚えているのが
2つある

子供だった、あさこと仲良しのきしんちゃんは一緒に
ピアノ教室に通っているのだけれど
発表会が迫ってきた或日
きしんちゃんが、あさこに聞きます。

「ねぇねぇあさこちゃん、発表会には何着るの?」

すると、あさこは

「あかいワンピース。」

と、答えるのです。

そしてもう1つ

あさこはきしんちゃんと一緒に演奏するのが望みです
それを、あさこはこう言いうのです

「それは、わたしの宿望なのです。」

子供の俺には何処か恐ろしげな文字に見えた。



人が人を慕い愛する時
それは
宿望なのでしょう。

そうでなければ、人は人を慕い愛し続けられない。

いや、愛は本来そうした在り方なのかもしれない

それが、神を求める生き方であっても・・・

だから

「それは、俺の宿望なのです。」










木曜日, 2月 09, 2012

nature ・ 本性














「わたしが最も好むのは、虚栄という、人間の本性だ。」







或る悪魔が俺にそう謂った。

虚栄は「本性」なのかと思った

そう確かに確実に

「虚栄心」は俺に在る

それは、物心ついた頃から存在する

神の御前に立つ時があるのならば

確実に裁かれる事は

この「虚栄心」だ

どれだけの人を、俺の虚栄心で傷つけただろ

もし、これが人の本性ならば

もう、俺は人でなくなっても構わない

肉眼では見る事が出来ない

バクテリアにでも変化すればいいのに









主よ。