土曜日, 12月 10, 2011

聖人の生まれた日







無原罪の聖母の御腕に、しっかりと抱かれ

まっしぐらに天に上った、この日

主の愛する忠実な僕は

聖とされた。



2011年12月8日

ひとりの小さな主の聖人が、生まれた日。



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隣りの勇太郎が泣くから、我慢してたのに・・・泣いただろぉ~(´;ω;`)

そうなったら、もうダメで、涙が止まらない。

弔辞の話しで、完璧にやられてしまっていた所に、勇太郎が泣くからぁ~

ポケットティッシュが残り少ないって非常時なのに、勇太郎が泣くからぁ~

ハンドタオルを部屋に忘れたのに、勇太郎が泣くからぁ~

もうだめ、泣き崩れちゃうぅ~゚(゚´Д`゚)゚。。。。。。

常に、クールなホスチア?でありますが、そんな訳で、大泣きした副院長様の葬儀ミサで御座いました。

弔辞をされた方の、副院長様のエピソードを聞き、心から何故もっと話しをしなかったんだろう
もっと、御世話をすればよかった・・・
次々と副院長様の想い出が蘇ってきました。

先日、買ったテレーズの本の中に

「人は生きたように死ぬ」と書かれていました。

副院長様を想う時、その言葉が、本当に重く感じられて、何度も呟いていたのです。

副院長様、修道名をアダムと言います。

アダムさんは、そうマザーテレサのような偉業を行なった訳でも、有名な司祭でもありません。
けれど、リジューのカルメル会の修道院の中で、病に倒れ、この地上の島流しから解かれ、故郷に戻った時、その修道女の存在を世界は知らないのです。
主はこうして、名もない小さな者を誰よりも慈しまれ、愛おしまれるのです。

兄弟アダム修道士の、死はそれを思い知らさるのです。

アダムさんは、聖人に成りたいと希望していたと感じます。
けれどそれは、けっして自分自身の誉れを望むのではない、真の聖人を希望した事でしょう。
アダムさんが好きで尊敬していた、テレーズの祈りにそれを見出す事が出来るのです。


 おお、神様、幸福そのものでいらっしゃる
聖い三位の神様!
私は御身を愛し、また愛させ、
世に在る人々を救霊の道に導き、
煉獄の霊魂に天国の門を開いて、
聖会の光栄のために尽くしたいのです。
 主の御旨を完全に果たし、私のために御国に備えられている光栄の高さまで達したいのです。
 すなわち、私は、聖人になろうと願っております。
けれども私は、じぶんの無力を感じておりますゆえ、
おお、神様、どうぞ御身ご自身、
私の聖徳におなり下さい。

  
(神のあわれみの愛に身を捧げる祈り、より)



きっとアダムさんも、この祈りを愛しておられた事と思います。

そんな、アダムさんの、エピソードを御紹介します。

弔辞の中で語られたエピソードです。
弔辞を行われた方は、アダムさんの神学校時代の先輩でした。或日、アダムさんの修室に招かれたそうです。
「私の部屋には、お酒もお菓子も無いですが、珈琲ならありますから、どうですか?」と誘われ
その方が部屋に行くと、机の上に、十字架が置かれていたそうです。
けれどその十字架は裏返しに置かれ、磔の主の姿が見えないのです。
「何故、裏返しに置かれているのですか?」と、聞くとアダムさんは、こう答えたそうです。

「主の苦しみに寄り添いたい。その願いはあるけれど、まだまだ私は弱い。
苦しみが来るのが恐ろしく不安になる。
子供は親の背中を見て育つと言う、
今の私は主の背中を見て、少しでも御跡に従いたいと願っている」









無原罪の聖マリアの日、ひとりの聖人が生まれました。


アダムさん、本当に有難うございました。




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