土曜日, 12月 31, 2011

十字架に縋りて








俺たちは一年365日欠かさずにミサを捧げる

喜びの朝も、悲しみの翌日も
病のさなかも、苦悩の時も


朝はまだ世界を照らさない
冷えた廊下が心を冷やす

この短い距離が
主の御受難の道へと誘う

小さな
小さな
本当に
小さな

十字架の道行

御聖堂の扉を開く

さぁ!

顔を上げて

主と共に死にましょう。



✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・・✝



毎朝の御ミサに十字架を持って行く。
それを、自席の前に置き、ミサに与るのです。
勿論、祭壇の壁には磔刑のキリスト像の十字架が掛けられているのですが、
俺は、写真の十字架を持っていくのです。

ミサ中、下を向いている事が多いので
跪いた時に十字架が見える様にとの思いからそうしているのです。

俺は、信仰が弱い。

ややもすると、毎日のミサが当り前で、聖務という義務をこなしているだけの様な気持ちになってしまうのが恐ろしいのです。

今朝のミサ、院長様の説教の中で、

「感謝の反対語は、当り前です。」と、御聞きしました。

俺は、どれだけこの生活と、とんでもない恩寵の内に生かされている事に感謝しているのだろう
そう、自問自答すのでした。

それは、きっと主に全てを奉献したいと希望したその瞬間からの自身への問いでもあるのです。

俺は、信仰が弱い。

こうべを垂れた時に、其処に主のしるしを求めるのです。

愛そのものである、主の御姿を求めてしまう。

命を渡す程の感謝の念を、得たいのです。

いつか、こんな作り物の十字架なんて必要なくなり、御聖堂であろうと、野っ原であろうと
街の雑踏の中でだって、闇の内に迷うその日でさへ

主よその御姿をはっきりと見ることができますように

身体の全ての動作が、感謝を示す事ができますように

心の全てが、感謝だけで埋め尽くされますように



俺は、信仰が弱い・・・



木曜日, 12月 29, 2011

遠い記憶












幼い頃

家の周りは、原っぱだった。


姫紫苑が一面に咲いていた。

近所には友達がいなくて

いつも、独りで

原っぱにいた。


枯れた姫紫苑の茎を剣にして

見えない敵と戦った。

そこは

原っぱの匂い。









修練の許可が出ました。









ハーブティーを煎れましょう。

遠い記憶の匂いが致します。

独りで、見えない敵と戦った

あの、秋の原っぱの匂いで

さぁ、部屋を満たしましょう。






火曜日, 12月 27, 2011

愛と愛情そして洗礼と救い・・・宗教的多元論・其の弍










修室を出ると冷えきった大気が廊下に張り詰めている、銀板の様な冷たい床が素足には痛い

それでも、母親のベットに潜り込む子供なように、御聖堂に向かう。







臆病な子羊のように・・・
























自席には座らず、御聖櫃に向かい、床に座る、

いつもの様に。

主に問うのです。
御父は、そのひとり子を世に渡される程に、人を愛された。
ヨハネ福音書には、神の愛を、そう記す。
渡された愛は、御言葉、もう声ではない、言葉は人の心に刻まれた。
ひとり子は、その愛に応答し御旨を全うされる。
キリストの愛は、眼に見える姿で、そこに在った。

十字架と共に・・・

傍らには、母が立つ。

母もまた、愛で在った。


この唯一の愛には、情など入り込めない
凛として、愛なのだ。


それは、人のこころには、確かに非情と映る瞬間が存在するのだろう。
恰も自然の驚異の如くに、宗教はそれに倣う。
ここにドグマが存在する、揺るぎない教えとして。

では俺は、このドグマ故に信仰を持つのだろうか?

否、そうではない・・・きっとそうではない。

信じたから、キリストの愛に触れ、一瞬で焼き尽くされてしまったから

信じているのです。

信じたから、此処にいる。

信じたと言ってしまうと、俺に選択権があるようで言葉が違う。

俺が信じようがいまいが、愛は在る。

そうきっと、この永遠に在る愛を、「さぁ、持ちなさい」と、渡されたのです。
大切にされる保証もなく、寧ろ棄てられてしまうかもしれない危険の中に渡すのです。
2000年前のべトレヘムの馬小屋のその日と同じに
何故なら、神が俺を信じているからです。

それでも、俺は、人は、冷淡な生き物です。
愛に在る事よりも、人の愛情に惹かれてしまう。

滑稽でしょう、虚しいでしょう、情け付きの愛なんて・・・
俺達はこの情け付きの愛に、悲しんで、傷ついて、憤って、恨んで、妬んで、切なくなって、惑わされて、迷子になって、それでも喜んで、笑って、優しくなって、抱き合って、癒されて、
共に生きています。

そうです、神様・・・御身の愛には届きません。けれど、そう造られたのは御身御自身です。

洗礼・・・水洗いによって回心を行なっていない者も、
御身は強烈な痛みの愛で御救いになられました。

最愛の御子、主イエズス様を世に渡す事で、御救いになられました。

降誕祭のミサの時に、はっきりと俺に御見せになられた

司祭の掲げるホスチアは、丸いパンではかった、裸の産まれたばかりの赤ちゃんでした。
しっかりと両手に主を持つ、その腕の先には神父様ではなく
遠い眼をされ、口を真一文字に閉じ、声のない叫びを上げながら御子を差し出す
マリア様がおいでになりました。

こんな愛に、これほどの愛に俺はどう応えたらよいのでしょう・・・

情け付きの愛しか持たない俺に・・・

随分と時間が経ちました、顔を上げると大きな聖書が浮かんでいました。

そこから声がします。







聖書 『アブラハムがイサクを神に捧げる、その時に神はどうされたのですか?』


俺  「御使いを送って、止めました・・・」


聖書 『神は情け深い御方なのです。』












イエズス様、洗礼と信仰によって、御身の霊と繋がる事で、
神を「アッバ、父よ!」呼べる、この恩寵のうちに存在出来る事を俺の全てを捧げて感謝します。

マザーの行いも、ガンジーの選択と生涯も、仏陀自身の存在も、
洗礼を承けずに亡くなった赤ちゃんも
情け深い、そう神の愛情によって義とされるのです。

情けは、虚しい。けれどその傍らには愛が、神の愛がいつも寄り添っているのです。

そして御父は、アブラハムを止めたにも拘わらず、御自身は主イエズス様を捧げられ、御身の御創りになった愛の掟を全うされる、「愛」そのものです。
その「愛」に全き信頼と、壮絶な御自身の愛で御応えになられたのが、マリア様・・・

主よ、感謝致します。

俺は、愛情しか未だ持ち合わせていませんけれど、
この道が情けを十字架として進むカルワリオの道だと、気づきました。

そして、進む先には 「愛」 が在るのでしょう。

主よ、辿り着けたその時には、「情」の鎖を断ち切って、
一糸纏わぬ姿で御身の前に立たせて下さい。

そして一切の影が消え失せ、霧が晴れるように御身と顔と顔を寄せ合いましょう。

どうか、その時には俺の名を御呼び下さい。




『愛よ。』、と。
















月曜日, 12月 26, 2011

愛と愛情そして洗礼と救い・・・宗教的多元論・其の壱










ちょっとコアな話し。

皆様、主の御降誕おめでとうございます。

いよいよ今年も残り僅かとなってまいりました。
もう大掃除はお済みですか?

ホスチアは・・・まだです(´;ω;`)・・・ドウシヨウ


そんな、面倒臭さがり屋な、ホスチアで御座いますが、夕べは熱くなってしましました。

夕べの修道院では、クリスマスの囁やかなパーティーを行いました。
ビールを飲んで、ワインも飲んで
微酔い気分になった時に、何故その話題になったのか・・・?覚えてなのですが
多元主義の話になっておりました。
そんな中、洗礼を受けていない者は救われるのかと、修道院らしいと云えばらしいのですが
宗教者を志す者、そして司祭の共同体とは云え、そうした話しをするのは余りないのです。
しかし、お酒も入っている事もあり、また各々は黙想、念禱の内に様々な御言葉に触れ感じている思いがあります。
それは俺も同じなわけで・・・で、激論と相成りました゚(゚´Д`゚)゚

カトリックの伝統では、救われるには秘跡が必要不可欠と教えます。
そしてその中でも、洗礼の秘跡は神からの大いなる恵み、そして人からは信仰の表明であるのですが、多元論的に捉えれば、カトリックの洗礼を受けていなくても、各々神や仏によって救われるとなるのです。
この思想からすると、洗礼の有無と救いは関係ない事になってしまう。
洗礼、その恵みを痛いほど実感している俺としては、この考えに真っ向勝負となりました。


(`・ω・´)ドッカラデモ、カカッテラッシャイ! ウッシャーッ!!!


カテキズム的には、俺の思いは正しい事でしょう。
けれど、ここで大きな問題定義なされます。

「じゃあ、ガンジーは救われないの?」

・・・・・・・・(´・ω・`) ヘェッ

「マザーが、死に逝く他宗教の方に洗礼を授けず、
その方の宗教で送る事は間違いなの?」

・・・・・・・・(´・ω・)オロオロ

「ブッダは救われていないの?」

・・・・・・・・(m´・ω・`)mカリカリ

「洗礼を授かる前に、
亡くなった赤ちゃんは救われないの?」

・・・・・・・・(´;ω;`)クスン

しかし・・・ここで、たじろぐ訳にはいきません。
神は、そのひとり子を受肉させ、世に渡す事で救済計画の最終兵器を投入されました。
そして主イエズス様は、人として苦しみながらも、父である神様の御旨を成し遂げられました。

つまり、人類は既に救われているのです。
この救いの完成については、俺もそう感じていますが、
洗礼の恵みの本質は個人の救いではないと思っている俺としては、
洗礼の有無での個人的救いという観点では無く、
神の恩寵としての洗礼の必要性を主張するのでありました。

この神の恩寵とは、神から愛されている事に気づき、その愛の深さを思い知る事です。
その神の愛を知った者は、自らをその愛に奉献し、愛そのものに変化する事を目当てとする様になるのです。
だからこそ、「天に行われる如く、地にも行われんことを。」と、俺たちは祈るのです。

激論は、結論を見ないまま、御開きとなりました。

俺の、心の中では、そんな自分の想いが正しいのかと、ガンジーを思う時、仏陀を思う時、そしてマザーの行いを考える時に、揺らぎます・・・。

修室に戻り、窓を全開にし・・・考えていました。
けれど、答えがでません、ウィキペディアにも答えはなくて・・・ソンナモンミルナッテ
こんな答えの出ない時には、直接御本人に御聞きする事にしています。

そんな訳で、迷える子羊ホスチアちゃんは、御聖堂に向うのでありました。















Be continued........(;゚Д゚)!





土曜日, 12月 24, 2011

聖 夜








































木曜日, 12月 22, 2011

修練開始許可願い









もう降誕祭まで、すぐだ。

デザイナーを生業にしていた頃、クリスマスのイベントやウインド・ディスプレイを
デザインしたりもしていたのだけれど、期間限定のそれらの催しが終わる25日の深夜に
大急ぎ撤去し、そのまま、お正月の飾りつけを行う。
クリスマスの本当の意味など無関係にデザインし飾ったそれは、数時間後には酷くモダンな
お正月に変わっていた。

あの頃、クリスマスは、季節の中の時計の様に感じていた・・・



クリスマスが終われば、後は転がるように、明けましておめでとう。

掛け替えのない時は、ただ転がっていたんだ。




25日、降誕祭までに、「修練開始許可願い」を提出する、来年1年間の修練を行う許可を戴く為の書類を書かなければならない。

漠然と修道会に入りたいと思っていた時、誓願を立てたいと、それだけを願い祈っていた時期があった。
誓願の意味すら本当には知らなかったのに、でも確信が欲しかったのです。

それは、生きている確信だったのか、自分自身への存在の確信だったのか

聖テレーズが「わたしの天職は、愛です。」と言い切った、その確信を欲しいと思ったのか

きっと、違うな・・・只、縋りつきたかっただけなのかも。



けれど、此処にいて思うのです。
その確信は、あの時どうであれ、御旨なのだと
この2年間で、生きていようが死んでいようが、俺が存在しようがしまいが
確信を得たいと願った惨めな魂の叫びは、本当に癒され温められ、愛された。

「わたしの天職は、愛です。」

そう俺も喜び宣言しましょう。

神の御前で、誓願を立てる、それは俺の宿望なのです。


修練が開け、御旨ならば、恩寵を享ける事ができる事と希望しています。




「修練許可願い」




きっと、主のくださったクリスマス・プレゼントですね。









心を尽くして、祈りの文字で綴ろうと思います。


主よ、御下に御呼び下さい。アーメン。



火曜日, 12月 20, 2011

ムーミン・セリユールに住む









先日、素敵なお店に連れてって頂きました。

小さなフィンランド・グッズのお店です。

可愛いマグカップやテキスタイルとか、小物とかとかとか・・・の、お店。

どれもこれも可愛いモノばかりで、乙女なホスチアに変身(うっキモイ)
しかし、どれも高いのです゚(゚´Д`゚)゚

そんな中に、ムーミンのフィギアが・・・と、思いきやこれが貯金箱で御座いました。
しかも、鍵付き、鍵を開けるとムーミンはまっぷたつになると云う大胆なデザイン。

このムーミンの可愛らしいところは、シッポを持って地面に着かないようにしているところ。
フローレンはよくそうしているのを見た事があるのですが、川とか渡る時とかにね
ムーミンもシッポを持つとは、恐るべし。

御値段も、お手頃だったので購入してしまいました。

てな訳で、ムーミンがホスチアの部屋に住むことなったので御座います。

ムーミンと云えば、ムーミン谷の冬の住人たちがお祝いするクリスマスのツリーには
てっぺんに星はありません。

星の代わりには、赤い薔薇がついているのです。

これは、冬眠を頑張って寝なかった、ムーミンに教えて貰いました。










日曜日, 12月 18, 2011

magnificat








わたくしの魂は主を崇め

わたくしの霊は

救い主である神を喜び讃え、踊ります

主が、そのはしための卑しさを顧みて下さったからです

そうです、今から後

いつの時代の人々も

わたくしを幸いな者呼ぶでしょう。


✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・・✝


明るかった背景も、つかの間、今日から待降節も、第4週。

今日の福音は、お告げの場面。

神様が、ユダヤの歴史に介入され、イスラエル民族の神から、全人類の救いを愛のみで行い始められた、その場面はガリラヤ地方の小さな街、ナザレの貧しい処女に告げられた神秘から・・・

処女マリアは、無作為に選ばれた訳ではない、神が人の時間に介入される以前から、
マリアはマリアであったのだろう。

マリア様は、確かに特別な存在なのです。
けれど、俺たちひとりひとりも、マリア様の様に無原罪でないにしても、
神の賜物を各々に神様は御与えになっています。
それは、ひとりひとりが、神の救済計画に無くては成らない存在だからなのでしょう。

大天使ガブリエルのお告げを受け、全てを受け入れるマリア様の「なれかし」の中に
人が、神の御前で義とされる、唯一があるのです。

そして、マリア様はナザレを離れ、エリザベトの所に向います。

そこで、福音書の中で、これ程までにマリア様が歌う事の無い場面へと向います。




Magnificat



旧約聖書の中に、この「マリアの賛歌」の雛型がある、けれどルカ福音書のこの歌は
マリア様の魂の中から湧き出でた、歓喜の歌。マリア様、御自身の歌だったのでしょう。





福 音 書




開く度毎に、驚きと感激と気づきが満載の書物。
嘗て「声」だった神は、御言葉として受肉され、俺達のうちに住まわれている。
この大いなる恩寵を記した書物、福音書。

その中で、最も愛を感じるのが、この「マリアの賛歌・magnificat」。

修道院での聖務である晩課の時に、歌うマリアの賛歌、これを此処に来て最初に共同体の中で
兄弟達と歌った時に、涙が出てしまった。


「神はわたしに偉大な事を行われた。その名は尊く憐れみ代々・・・」

主は、こんなにも汚れた俺ですら、御下に招いて下さり、御自分の道具ととして御使いになられようとされて下さる。
そう知った時に、涙が止まらなかった・・・

とるに足りない罪人の俺を愛して下さって。



俺が、主に御返しできる事は、主の教えて下さった愛です。


主と共に同じ屋根の下に暮らせる幸福を、全て御捧げ致します。







主イエズス・キリストは讃美されますように。アーメン。








土曜日, 12月 17, 2011

Christmas card.。.:*・゚:*・゚。:.*







腰痛なホスチアは、今日のお仕事といえば・・・

修道院のクリスマス・カードを作っていました(*´∀`*)

もうすぐ、.。.:*・゚Merry-X'mas:*・゚。:.**<(* ̄▽ ̄)ノ☆;:*:;☆なのだ~♥













るん♥













恩寵と病







持病とも言うべき腰痛で昨日からダウン。

椅子に座って後ろの本を取ろうと振り返ったら、グキッ☆⌒(>。≪)痛~っ

歩いて15歩の御聖堂までが遠いこと・・・
加えて本日は土曜日でありまして、修道院の掃除をいつもより少し丁寧に行う日でもありまして
C班(ホスチアの班)の担当は食堂。

椅子をテーブルの上にあげて、モップで床を・・・(→o←)ゞ

腰は。本当に身体の要で御座います。

こんな些細な体調不良でも、普段の生活が滞ってしまい、予定も計画も中止となるので御座います。
嘗て、3ヶ月程入院生活を余儀なくされた時に経験した絶望感程ではないのだけれど、学校にも行けないので、焦燥感で少し凹んでいるのでした。

落ち込んでしまえば、もう何もしたくなくなる訳で、ボーっとしてしまえば、それで1日が過ぎてしまう。
それは勿体無いので、本を読んだりするのですが、俺の読書は本当にゆっくりで、読む本も黙想を促す的な本ばかりなので、少し読んだら黙想状態になってしまい先に読み進めないのであります。

けれど、冬の匂いや、近所の子供の声、なにやらビルの解体作業をしているらしく、大型重機のエンジン音、そして修室の窓から見える青い空。

体調不良でなければ、気づけない音、匂い、色を感じる事ができるのは神様の恩寵。

与えられた時間は、僅かです。健康な時も病の時も、神様から戴ける大切な時間。

病の時には、それでなければ与えられない恵みが必ず存在する事でしょう。


あぁ・・・でも、やっぱり元気の方が良いんだよね(´;ω;`)




コシイタイ・・・。



水曜日, 12月 14, 2011

試行錯誤








最近、こんな俺のブログを見て下さる方が沢山おられる様になり、
本当に感謝なのですが、少し困惑していたりもします(m´・ω・`)m

携帯ブログで書いていたときは、日に数人の方が読んで下さる程度だったので・・・

で、ここ最近よく「なんで、ブログの背景が、いつも暗いの?」とか
「怖い」とか、聞かれたり言われたりするのです。

「暗い」には、メッセージがある事はあるのですが、確かに暗く、恐ろし気である事は認めます。
でもって、色々と試してるんです。
それでも、やっぱ暗い・・・俺の嗜好の問題もあるのですが、妙に明るいのも趣味ではないし、と
正に、試行錯誤のここ最近でした。

和菓子ラブ♥ホスチアですから、和菓子な背景なんてのも試してみたのですが、大福を食べながらワインを飲むみたいなブログになってしまうので、却下。
それならばと、上のソフトクリーム画像にしてみたのですが、いったいなんのブログか判らなくなってしまったので却下。

そんな訳で、今回見事に採用されたのが、御覧の背景で御座います。

ちょっとノスタルジックでポップなイラストは、フランスはノートルダムの聖母子で御座います。



ねっ、これなら怖くないでしょ(^_-)-☆









月曜日, 12月 12, 2011

C'est Rose










修道院の勝手口から外に出る狭い通路
その、通路の先には鉄格子の小さな扉がある

出入口の周りには、幾つかの種類の薔薇が咲く。

どの薔薇の名前も知らない

薔薇はどんな名前だろうが

薔薇なのだ。




薔薇が好き

赤い薔薇が好き



薔薇の季節はいつなのだろう
きっと春なのかな

5月、マリア様の月かな

けれど、修道院の狭い通路のその薔薇は咲いている

薔薇なのかな、茎に棘があるから、たぶん薔薇
きっと薔薇

周りの薔薇は咲いていないけれど
きっと薔薇


この何種類かの薔薇は、それぞれに大きさの違う棘を持っている
細かいチクチクした棘
少し大きな棘
鮫の歯の様な棘

この通路を通って外に出る時には、この棘達には御用心

待ってと云われて、刺に袖を引かれてしまいます

忘れないでと言わんばかりに
棘で爪を立てたりするのです

考えてみれば、狭い通路に歩くのを拒むかの様な物は取去ってしまえば良いのでしょう
けれど、誰もそんな事は思いません

不便は、優しいのです

不便は受け入れて、邪魔な物を愛おしみ

じっとそれらを見つめていたら
鏡に映った自分を見たりします


小さな鉄格子の扉を開いて
身体を少し斜めにして
頭を屈めて



「おはよう。薔薇。」








土曜日, 12月 10, 2011

聖人の生まれた日







無原罪の聖母の御腕に、しっかりと抱かれ

まっしぐらに天に上った、この日

主の愛する忠実な僕は

聖とされた。



2011年12月8日

ひとりの小さな主の聖人が、生まれた日。



✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・・✝



隣りの勇太郎が泣くから、我慢してたのに・・・泣いただろぉ~(´;ω;`)

そうなったら、もうダメで、涙が止まらない。

弔辞の話しで、完璧にやられてしまっていた所に、勇太郎が泣くからぁ~

ポケットティッシュが残り少ないって非常時なのに、勇太郎が泣くからぁ~

ハンドタオルを部屋に忘れたのに、勇太郎が泣くからぁ~

もうだめ、泣き崩れちゃうぅ~゚(゚´Д`゚)゚。。。。。。

常に、クールなホスチア?でありますが、そんな訳で、大泣きした副院長様の葬儀ミサで御座いました。

弔辞をされた方の、副院長様のエピソードを聞き、心から何故もっと話しをしなかったんだろう
もっと、御世話をすればよかった・・・
次々と副院長様の想い出が蘇ってきました。

先日、買ったテレーズの本の中に

「人は生きたように死ぬ」と書かれていました。

副院長様を想う時、その言葉が、本当に重く感じられて、何度も呟いていたのです。

副院長様、修道名をアダムと言います。

アダムさんは、そうマザーテレサのような偉業を行なった訳でも、有名な司祭でもありません。
けれど、リジューのカルメル会の修道院の中で、病に倒れ、この地上の島流しから解かれ、故郷に戻った時、その修道女の存在を世界は知らないのです。
主はこうして、名もない小さな者を誰よりも慈しまれ、愛おしまれるのです。

兄弟アダム修道士の、死はそれを思い知らさるのです。

アダムさんは、聖人に成りたいと希望していたと感じます。
けれどそれは、けっして自分自身の誉れを望むのではない、真の聖人を希望した事でしょう。
アダムさんが好きで尊敬していた、テレーズの祈りにそれを見出す事が出来るのです。


 おお、神様、幸福そのものでいらっしゃる
聖い三位の神様!
私は御身を愛し、また愛させ、
世に在る人々を救霊の道に導き、
煉獄の霊魂に天国の門を開いて、
聖会の光栄のために尽くしたいのです。
 主の御旨を完全に果たし、私のために御国に備えられている光栄の高さまで達したいのです。
 すなわち、私は、聖人になろうと願っております。
けれども私は、じぶんの無力を感じておりますゆえ、
おお、神様、どうぞ御身ご自身、
私の聖徳におなり下さい。

  
(神のあわれみの愛に身を捧げる祈り、より)



きっとアダムさんも、この祈りを愛しておられた事と思います。

そんな、アダムさんの、エピソードを御紹介します。

弔辞の中で語られたエピソードです。
弔辞を行われた方は、アダムさんの神学校時代の先輩でした。或日、アダムさんの修室に招かれたそうです。
「私の部屋には、お酒もお菓子も無いですが、珈琲ならありますから、どうですか?」と誘われ
その方が部屋に行くと、机の上に、十字架が置かれていたそうです。
けれどその十字架は裏返しに置かれ、磔の主の姿が見えないのです。
「何故、裏返しに置かれているのですか?」と、聞くとアダムさんは、こう答えたそうです。

「主の苦しみに寄り添いたい。その願いはあるけれど、まだまだ私は弱い。
苦しみが来るのが恐ろしく不安になる。
子供は親の背中を見て育つと言う、
今の私は主の背中を見て、少しでも御跡に従いたいと願っている」









無原罪の聖マリアの日、ひとりの聖人が生まれました。


アダムさん、本当に有難うございました。




木曜日, 12月 08, 2011

無原罪の聖マリアその祭日の朝。







電話が鳴っている。

朝、まだ5時過ぎ、嫌だ・・・そう思った。

誰も出ない、けれど電話は誰かが出るまで鳴り止まない事は解っていた。

ベットを抜け出し、少しふらつきながら電話室に。

電話を掛けてきたのは、長崎の神父様

「今朝の、3時半に・・・」



その方は、修道士で、此処の副院長様をされていた、俺が不慣れな修道生活を送っている頃
なにかと心を配って下さった。
身体の具合が悪くなり、長崎に移転され専門の病院に入院されたが、医学的には何処が悪いのかはっきりしないまま、みるみる体力が衰えてしまった。
夏に1ヶ月間、長崎に行っていた時に何度か入院先の病院に御見舞いに伺ったが、とても辛そうで、ただ祈るばかりだった。
とても痩せてしまったので、横になっていても背中が痛み辛いと言われた。
背中に、クリームを塗って差し上げた・・・骨と皮だけの小さな背中だった。


本当に、修道者らしい修道者。

本当にフランシスカンらしいフランシスカン。

まだ、此処に居られる時に、一度だけ手紙を戴いた事があった。
それは、痩せてしまい、お尻の肉も無くなってしまったので、椅子に座るのが痛いとこぼされたの聞いて、低反発のクッションを買って渡した後の事だった。

手紙には、

「クッションを買ってくれてありがとう。でも皆も堅い椅子に腰掛けているのに、自分だけこのクッションを使うわけにはいかない、それに私たちには、こうした物を買うお金は無いのです。
私たちは、多くの信者さん方の施しで生きていますから、楽をする為のお金を使わない様にしましょう。
私が、痛いとこぼしたばかりに、心配を掛けてしまいました、反省しています。
しかし心遣いは本当に嬉しいのですが、今後はこうした事はしないで下さい。」

俺は、直ぐに謝りに行きました。



副院長様は、病の苦しみを受け入れ、全てを聖母の御手に委ねられ、主に御自身を御捧げになっていたのでしょう。
そんな、副院長の信仰に、もしかしたら小さな躓きを渡してしまった事に、心から詫びました。



今日、そう無原罪の聖マリア様の日、コルベ神父様が会員に常に仰っていた事。

「無原罪の聖マリア様に、全てを御委ねしましょう」

その言葉通り、副院長様は今日、天に召された。

俺がテレーズを好きだと知ると、本当に嬉しそうに「僕も、テレーズが大好きで模範にしているんだよ」そう話してくれた副院長様は、きっと今、マリア様とテレーズの前で、跪き感謝の御祈りをされている事と思います。

病の苦しみから全て解き放たれて。

副院長様、本当にありがとうございます。

修道生活、お疲れ様でした。

主よ、絶えざる光を、御身の忠実な僕の上に。アーメン。





水曜日, 12月 07, 2011

偶然が織り成す、綴織。







昨日、修道院にひとりの女性が訪ねてこられた。

御自分の召命について、迷いや確信を知りたいが為に。

それは偶然に、このブログからだったのだけれど
俺自身の召命を思うと、やはり偶然が重なって今に至る。

召命は不思議で、その道に進みたいと願っている方が、修道会に入会するかと言うと
そうでもなく、そんな事を余り考えた事もない人間が入会したりする。

それは、偶然が不可欠な要素なのかもしれない。

その偶然には、人との出会いがある。
そこから、次々と人との出会いが始まる、しかも急速にである。

召命の主導権は神様にあり、人はその強烈な重力に引きつけられ、その愛の炎に焼かれる。

ひとりの人間の召命は、神様が織る綴織の様なもの。

偶然という、人との出会いを織込みながら、修道者ひとりひとりを丹念に織り込んで下さる。
人の眼には偶然としか映らない、人との出会いは、神様の仕組んだ事かもしれない。

でも、神様は自分だけの好みでは行わない、その出会いが起こす、その結果は人に委ねられる。
出会いによって、大きな変化を起こすも、全く起こさないも、人の自由意思に任せられて、御自分は雲の上からそっと見つめておられる。

神の愛に気づく者が、愛の中で生きていた事に気づく者が、愛に生きようと歩き出すのが召命なのでしょう。

偶然が織り始めた、この道をデザインするのは自分です。
けれど、織り成す糸がなければ織り進めない。

それは、偶然という、出会いの中で神様が渡して下さる、神の糸。

神の糸、織り成す布は、愛そのものなのですから。

俺と同じように、歩き始めている彼女の為に日々、祈っています。

神の糸、渡されたけれど、こんがらがらない様に、お互いに祈りながら織り進めたいと願いながら。

そして、いつか後ろを振り返った時に、歩いて来た道に広がる綴織が、誰かを暖め癒している事が出来たら・・・そう希望するのです。

明日は、無原罪の聖母の祭日、マリア様に寄り縋りながら、祈り歩んでいきましょう。



主イエズス・キリストは賛美されますように。アーメン。



月曜日, 12月 05, 2011

愛で生きる・幼きイエズスの聖テレーズの詩









日曜学校のクリスマス会が近づいて、子供たちに心ばかりのプレゼントをと思い、
久しぶりに四谷の「ドン・ボスコ」へ、おかいものに行ったのであります。

ドン・ボスコには、出身教会の信徒さんが働いているので、暫く振りに会えるかなと思ったのですが、店頭にはいませんでした・・・・クスン残念(´;ω;`)

まぁそれでも、おかいもの~♫おかいもの~♫と、なんかのCMの歌を心の中で歌いながら
あの、宝箱の様な店内を物色していました。

なにせ、40人近くの子供たちの分ですから、


安い、軽い、かさばらない。

が、今回の「ミッション・おかいもの~♫」基本コンセプトでございます。
このコンセプトに沿った商品となりますと、必然的にカード類という事になるのですが、
クリスマス・カードじゃ、捻りなさすぎですから、結構困難なミッションなのでありました。

しかし、そこは我、母校の修道会が経営する、天下のドン・ボスコ、青少年の育成にその生涯を渡した聖ドン・ボスコのお店でございます。

「安い、軽い、かさばらない。」しかも、ありきたりのクリスマス・カードでもない商品がありましたぁ~

組立て式のペーパー・プレゼピオ.、しかも小さな赤ちゃんイエズスさまフィギア・・御像付き!

早速、組み立てみました・・・微妙。。。ではありますが(´・ω・`)。。。




でも、これで1つ168円は、安いでしょ(*´∀`*)

幼きイエズス様は、ちゃんと樹脂製で、しかも暗がりでボーっと光る優れモノなのです。

この、プレゼピオのチャームポイントは、主の降誕を知らせるあの星が、これでもかとばかりに
馬小屋の屋根に突き刺さっているところでしょう。
これなら、東方の博士達も決して間違える事なし!

そんな訳で、プレゼントも買えたし、店内をしばし散策です。

すると、テレーズ好きのホスチアの眼に1冊の本が飛び込んできました。

幼きイエズスの聖テレーズの詩愛で生きるマルタン師による解説・山口女子カルメル会訳

質素な装丁、エンデルレ書店の本を彷彿させる、ワープロチックな書体、発行部数は少ないぞと言わんばかりの謙遜な佇まい・・・こいつはデキル・・・(`・ω・´)

この、簡素な趣は、購買意欲を刺激するでした。


はい、買ってしまったわけで・・・(m´・ω・`)m

初版が1995年なので新刊と云う本ではありませんでしたが、中身は俺の知らないテレーズの詩が載っていました。

「愛に生きる」その事を、15の短い詩で綴っています。

聖テレーズが、見出した「愛」の本質がこの15の詩には凝縮されています。

各詩を、段落毎に、マルタン師(たぶん、テレーズ御親戚筋でしょう)が解説されているのも、理解の助けになります。

同じリジューのカルメル会で生活を共にした姉のひとりセリナが、こう言いています。


「妹の作品で、いつまでも『王』であるだろう。」

こんな俺でありますが、俺自身も「愛に生きよう」「愛であろう」と修道生活を送っています。
そんな俺にとって、テレーズは憧れであり、大切な存在です。

大変に人気のある聖女ですから、多くの方が御存知かとは思いますが、どうかより多くの方がテレーズを知ることで、主イエズス様の愛を感じて欲しいと思うのでした。

でも、紹介したのですが、まだちゃんと読んでないんだ・・・ゆっくり読む事にします。



土曜日, 12月 03, 2011

神父と言う衣を纏った人間。




神父も人間だ。・・・なんて事は言いたくない。

只、彼とは本当に数回しか会った事がない、けれど同じ臭いを感じた。

今年、彼は叙階され司祭となった。

叙階式の日が、うちの会の叙階式と同日だった事もあり、うちの会の兄弟は出席出来なかった。
でも、長崎での兄弟の叙階式には、わざわざ東京から駆けつけてくれた。

夏に、彼と会った。

俺も決して背の低い男ではないのだが、彼は見上げなければ話しが出来ない程の長身で、それでも彼の人懐っこい笑顔は威圧感を与えることなどなかった。


人が、苦しむのが辛い。

今、彼はどうしているんだろう、きっと苦しんでいるんだろう・・・

そう思うと、心が捩れる程に辛い。


犯した事は、そう、キリストの代理者として弁明の余地は全く無い。



けれど、彼は素敵な青年で、きっと彼も俺と心が通じ合う相手と感じてくれいる。



神父。


司祭。


修道者。


そう、俺たちは、修道者で、フランシスカンなんだよ。

彼が、叙階の時に自ら言った言葉を、俺もそう宣言したいと思った。




元田神父様、絶対に司祭を辞めてなりません。



どんと来い、降誕祭。








共同体では、24日のクリスマス・イブは、夜7時から、「主の降誕・夜半ミサ」を捧げます。

なんと、無謀にも全ラテン語で、歌は勿論、グレゴリアン聖歌・・・(;゚Д゚)!


てなわけで、式次第も完成し、後は御父の御業に御委ねし、24日を待つのであります。




上田教授にあやかって・・・












どんと来い、降誕祭!




金曜日, 12月 02, 2011

回心








待降節と四旬節、この時期キリスト者は回心を教会から促される。

主の御降誕と御受難。

生と死。

この真逆の様な主イエズス様の出来事が、俺の中では同じだ。

貧しさの中、本当に粗末で劣悪な環境の中、主は御産まれになった。
身に着けた物は、母マリアが織ったであろう、一枚の布。
寝かされた場所は、飼葉桶・・・それは家畜達の食物が入れられる場所。
俺たちの王はこうして世に引き渡された。人類の罪の贖いのために。

それは恰も、イスカリオテのユダによって、引き渡され、人類の罪をその十字架に満載して
狭い産道を身を攀じりながら進む赤子の様に、狭い石畳の坂を登る、
その時を御産まれになったその瞬間に示されたかのようです。

そうして、主は最後には身に纏っていた、たった一枚の布をも奪い取られてしまう
腰に巻いていたその布も、母マリアが織ったのでしょう。

どんなに、神の御旨をと、強い決心とその人生において、マリア様は母である事を、普通のおかあさんである事を否定しながら生きれこられたことでしょう。
でも。御降誕の時に主を包んだ、あの布と腰から奪い取られたあの布には、母マリアの想いと母としての愛がどれ程込められていた事でしょう。

しかし、主はその母の愛をも、俺たちの為に捧げられた。

主イエズス・キリストは、その人性に於いて、徹底的に御父の御旨を全うする事にのみ生きた。
その神へ向う心を俺に日々、主は諭す。

それでも、世と云う計り知れない闇からの重力は、霊魂の飛翔を許さない。

もしこの重力が月ほどであったなら、月面に降り立った宇宙飛行士の様に、跳ね回れる事だろう。
けれど、それすら重い宇宙服を身に着けなければならない。

でもきっと、神様の御前に行こうと思えば、たとえ真空の空間であろうと、
なにひとつ、そう布一枚すら身に纏ってならないのかもしれない。

そうして、躰全ての穴という穴から体液が放出されようとも、それは大いなる喜びとなるでしょう。
世の重力から完全に解放され、御父と御子の愛の交わりに聖霊の光によって、愛に抱擁され加わるのです。


あぁ、それでもこの世に在る限り、様々な物を身に纏い、身を守るのでしょう。

回心を想う時、それは神様に振り返るその時、多くの醜いものを脱ぎ捨てなければと思うのです。



それは、主の掟となるために。



ギリシャ語で回心を、メタノイアと言います。

心を回して読んでみました。








メタノイア










ア   イ   ノ   タ   メ






木曜日, 12月 01, 2011

Transforme en amour grâce à de la Vierge Marie











主よ俺の眼が
慈しみ深く愛となりますように
俺を助けて下さい。

誰をも外観で判断して
疑い裁く事なく

いつも隣人、兄弟姉妹の
魂の中の美しいものに眼を留め、
彼等を進んで助ける事が
出来ますように。


主よ俺の耳が
慈しみ深く愛となりますように
俺を助けて下さい。
隣人、兄弟姉妹が
必要としている事に気付き、
彼等の苦しみや悲しみに対して
無関心になりませんように。


主よ俺の舌が
慈しみ深く愛となりますように
俺を助けて下さい。


決して隣人、兄弟姉妹を
けなしたりせず
誰にでも慰めと赦しの言葉が
口にのぼりますように。


主よ俺の手が
慈しみ深く愛となりますように
俺を助けて下さい。


隣人、兄弟姉妹の為に、
ただ善い事だけを行い、
より困難でより骨の折れる仕事は、
俺が引き受ける事が
出来ますように。


主よ俺の足が
慈しみ深く愛となりますように
俺を助けて下さい。


どんなに疲れて果ていても
隣人、兄弟姉妹を
助ける為に急いで
駆け付ける事が出来ますように。


主よ俺の心が
慈しみ深く愛となりますように
俺を助けて下さい。


誰に対しても心を閉ざす事なく
たとえ、
俺の親切を悪用すると
判ったとしても
真心を込めて
その人と交わり、
俺自身はイエズス様の
みこころの内に留まり、
沈黙し、苦しみも主の恵みと
受けとめる事が出来ますように。


我が主よ‥

御身の慈しみと愛が、
俺の内に満ち溢れますように。


我が主イエズスよ

俺を御身へと、愛そのものに変化させて下さい。



御身はなんでも、
御出来になるのですから



我が主イエズスよ



御身に信頼します。


アーメン†



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数年前に、聖ファウスティーナの祈りを、俺なりアレンジした祈り。

ずっと、そしてこれからも、こう願い、祈り続けるのでしょう。

聖母マリアの支えの中で、愛に変化しようと・・・

主よ、それは御身とただひとつに成りたいと、願い登る遠い山路・・・遠い山路。









主よ・・・