ずいぶん前
くらげを
飼いたいと思った。
くらげは
死ぬと
水になる
と
聞いたから
ヨーロッパでは
くらげを
medusa
と
謂う
そう
あの
髪の毛
の
様に
蛇
を
持つ
女神
英語
は
Jellyfish
心が
無い
ネーミング
medusa
が
素敵
だ
漢字
は
海月
そして
水母
どちらも
女性名詞
そして
暖かい
月
であり
母
であり
水
であり
海
想像
しましょう
静かな夜の海に、月が映ります。
漆黒の海の中を
漂う
海月達。
静かに、波に任せ
しかし
想いを
その
透明な肢体に
顰める
母マリアのように
くらげは死ぬと水に帰る
人は死ぬと土に帰る
陸と海
愛する
母なる惑星
そこに
帰る
くらげも
祈るだろうか
くらげを飼いたかった
不意に
それを
思い出しました。
一瞬めだまおやぢ?
返信削除に見えてしまいました(・Θ・;)
毒のある種ほどあでやかな容姿でつい魅入られてしまいます>MEDUSA 刺されると大変デス
子供の頃、くらげに刺されて
返信削除ず~とず~とず~とず~とっ・・・・
泣いていた時がありましたぁ゚(゚´Д`゚)゚○
カラコンをつけた、めだまおやじの画像を何処かで見たっけ。。。。
ヒト目線で何かを感覚するの「主体」という自己が
返信削除しんどくて、被創物の構成要素から消失したいです(/-\)
クラゲの魂ってどこに行くんだろう。。
リアンさん。主の平和。
返信削除どうしたって、と言うより他人の目線で感じる事など無理ですもんね(´;ω;`)
でも、はっきりした自我と他者を隔だつ境界線を神様は人に御与えになりました。と、並列にその境界線を超える無意識の自我、(これを霊と呼びましょう)も御与え下さいました。
この、並列する2つであり1つでもある我を心と呼びましょう。
この心はと云うが、これまた厄介な存在ですが、境界線を超えて他者と交わった霊が、心に変化を齎らす事で、人は満たされたり、悲しんだり、怒ったりするのかもしれません。
だから、霊に愛を悟らせる為に、主がこられたのだと思います。
主の愛を、戴きたいですね・・・
未熟なホスチアでした・・・(´;ω;`)
リジュのテレーズは主の愛(いのち)に空の手で、入っていったのでしょうか..
返信削除一方愛をソフトウェアと仮定して生まれながらに確知しなくとも作動していたのがベルナデッタだったのでしょうか...
リアンさん、こんばんは。
返信削除コメントを読んで、ベルナデッタは、修道院に入って、感覚だけじゃない神と人との関係性を深く黙想していったのかもしれないなぁと、思いました。
ベルナデッタ自身が修道女になる事を、修道院に入って初めて望む様になったのでは、とも感じます。
彼女にとって神と深く関わる場所は、洞窟の前で充分だったはずですから。
けれど、彼女はキリストの愛という、リアンさんの言うところのソフトが走る、神にとって最良のハードだったのでしょう。
彼女は、それを修道院の中で感じ、修道女と言う奉献生活システムの中で作動すると感じたのかもしれません。
でも、愛と言うソフトをインストールされた時の事が、余りにも有名に成り過ぎたのは、彼女の不幸かもしれません。
一方、テレーズは、彼女自体がソフトウェアなかもと思います。ソフト開発者はキリストですが、ソフトはハードがなければ、その素晴らしさは認識できません。
テレーズにとってのハードは、リジューのカルメル会でなければならなかった。
彼女はの全てを造り構築したのは、キリストですから、彼女にとってキリスト以外の不純物は邪魔でこそあれ、何ひとつ必要な物は彼女自身の中にはなかったのだと思います。
そして、今この時にも、幼きイエズスと尊き面影の聖テレジアのソフトで作動している「愛」が在るのだと感じます。
同じ様に、その「愛」の顕し方の方法は、見え方は違ってみえますが、マザー・テレサもテレーズと同じ様に主によってマザー自身が、ソフトウェアなのだと感じます。
ハードは、言うまでもない「神の愛の宣教者会」でしょう。
ホスチアさん、こんばんは。
返信削除どんな時にも揺るがない、ベルナデッタの聖性をどう表現していいのかもどかしかったのですが、「キリストのハード」だったのですね。ありがとうございます。そして、、テレーズの「薔薇の雨」は今降り注いでいるのだと感じます。
マザー・テレサの手記COME BE IN MY LIGHT
を通読して感じたのは、マザーの、
切ないまでの主への渇望と、孤独と絶望でした。。
τ平和と善。
返信削除リアンさん。
コメントありがとうございます。
俺の返事は、深遠な神学的考察から答えてる訳でありません。
只、ひとりの惨めで罪深い主の小さな僕である俺が、只、感じた事でしかありません。
だから、そう云う風に感じる人もいるのかぁ・・・
ぐらいに思って下さいね(´・ω・`)
俺たちは、修道者で在ろうとなかろうと、洗礼によって主に繋がり、キリストの肢体の1部となりました。
各々が、大切な働きを担います。
それは、マザーの云う、主の道具となる事を意味していると感じます。
ベルナデッタの朽ちることない美しい肉体は、主の愛の証しとして、眼に見える(触れる事も出来るでしょう)姿で存在そています。
眼に見えない「愛」は、こうして見える形で示される必要性と、テレーズの様に、眼に見ることが出来なくとも、テレーズを通して、その「愛」を示す事も同時に必要な事なのだと感じます。
マザーは、そんなテレーズの様な存在でありながらも、ベルナデッタの様な、見える存在として、世界中の多くの人に注目されたしまいました。
教皇様の名前を知らない人も、マザー・テレサは知っている。
それは、マザーの大変な苦しみだったと思います。
現実社会での苦しみに加えて、霊的な暗夜の中で、しかも50年間もの長きに渡っての乾燥状態の中、彼女は、マザー・テレサを世界から求められた・・・
マザーは想っていたと思います。
「マザー・テレサを求めるのではなく、イエス・キリストをもとめなさい。」と。
俺たちは聖女達の様な、偉大な神の道具にはなれませんけれど、自分の周りで、行える「愛」は、ひとりひとり主から託されいます。
それは、ある人はハードウェアとして、ある人はソフトウェアとして。
自分が、何も者かを知るのは困難ですが、無意識にまた意識的に行う「愛」は、全て主の御旨だと感じます。
だから「愛」を、常に起動させておきましょうね(*´∀`*)