水曜日, 11月 23, 2011

appel divin









このブログでのやりとりで(俺の名刺の事)ある方の召命の苦悩を知りました。

きっと、カトリック信者の方で、召命(司祭や修道者になる)を御考えになった方は多いと思います。
幼児洗礼であれば、或日、洗礼の恩寵に気づき、成人洗礼ならば、より主の御そばにと・・・

しかし、現実はその道を歩む者は僅かです。
それは、神様がひとりひとりに御与えになっている賜物によってなのでしょう。

人は、賜物を生きるのですから。

神の御旨に従って生きるのならば、どんな生活も義とされ、聖とされるのです。


俺はと云えば、いつも傍にいてくれる誰かが欲しくて、いつも笑っていたくて
その誰かは、いつだって最高に優しくて、俺を支えてくれていたのだけれど

きっと、俺がいつだって、支える力なかったのでしょう。

もし俺に力があって、強くて、もっと愛があったなら

きっと、結婚していた。




主はそんな力もなく、貧弱で、愛の無い俺を、本当に御使いになるのだろうか・・・

そう思いながら、命懸けで祈る日々。

勿論、答えなんてどんな本にも書かれていないし
だから、自分で確かめなければなりません。

それでも、日々は流れて行きます。

あれ程暑かった夏。

でも、もう寒いんです。

今日、修道院では、主を御迎えする準備をしました。

イルミネーションを灯し、馬小屋を造り・・・もう、クリスマスになるのです。

此処にきて、2度目のクリスマス。

去年の降誕祭、涙が止らかった、こんな俺を、愛してくれてる・・・




俺が俗世ではなく、主に招かれているのなら、そうきっと、ずっと想いながら歩いていくのかもしれない。

けれど、主が俺をどうしたいのかは、解らないけれど、主は俺を、愛さずにはいられない事ははっきりと解るのです。

だから主よ、今はこう思わせて下さい。

俺は、愛するため、主を愛するために存在しているのだと。

それが、俺の召命だと。




主イエズス・キリスト、私は御身を愛する他に誇るものはありません。

















イエズスさま・・・






6 件のコメント:

  1. マキシミリアナ・マリア・コルベ2011年11月23日 18:41

    私は、「起床時間」というたったそれだけで、修道院入りを諦めました。しかし、主は、私が修道者になるよりも、もっと優れた子孫を修道者、しかも複数を用いて下さると信じています。わたしが、地に落ちて死ねば、多くの実が実るのです。そう信じて疑いません。(この自信、どこからきているのか不明ですが)

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  2. τ平和と善。

    マキシミリアナさん、それは本当に素晴らしい事ですよね。

    世界各地の修道会に、マキシミリアナさんの遺伝子を派遣してください(*´∀`*)

    でも、修道会を諦めた理由は・・・(m´・ω・`)m

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  3. ひとりのひとを大切に愛されたホスチアさんだから。
    主は愛さずにいられないと思うのです・・

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  4. リアンさん。コメント有難うございます。
    俺は、そんな純粋ではありません。ただの男で欲望もいっぱい有って・・・
    恋愛を否定はしないけれど、俺には人を傷つけるだけの行為だったかもしれません。
    だから、今は真理の愛になろうと希望しています。
    そして、この日々が最高に幸福と感じています。

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  5. こんにちは。いよいよ待降節ですね。
    一歩一歩修道召命の道を歩んでおられる
    大切な日々ですね。
    人を愛したことがある経験は、素晴らしい経験だと思います
    そしてまた、そうでない、神様だけを見つめる道もまた、素晴らしい道です。結婚に召されている人、修道生活に召されている人、司祭へと召されている人、いろいろな導きがありますね。この待降節に、自分が呼ばれた声、道にゆっくりと答えて、イエス様をお迎えする準備をしたいです^^

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  6. シスター、コメント有難うございます。

    俺は、此処にいる兄弟達と違って、まぁ、汚れまくっている身体だから、もうそれを白くは出来ないけれど、此処にいる全く清い兄弟達とは、違った主の道具として、呼ばれているのかなと思っています。
    それでも、聖母の様に全く汚れのない者に変化することは諦めない心で歩んでいくつもりです。

    善い待降節を、お迎え下さい(*´∀`*)

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