マリア様の祈りが、「めぐみあふれる・・・」から「アヴェマリア・・・」に変更になって
共同体でも慣れてはきたのですが、俺としては未だに違和感ありなので御座います。
まず、冒頭の「アヴェマリア」が、日本語的発音すると、「阿部まりあ」的なるし、かといって
ラテン語風に「Ave Maria」と発音すれば、なんかキザっちいでしょ(´;ω;`)
そう、阿部まりあと云えば、昔、みずきありさ主演の「天使のお仕事」ってテレビドラマで、主人公の名前が「あべ まりあ」だったなぁ、あのドラマ典礼的には、それはないでしょって箇所はあったけれど
先輩シスターが罪を犯したと感じた時に、御聖堂で詩篇51を唱えるのが良かったなぁ・・・
ん・・(メ・ん・)?なんの話し、してたっけか???
そう、それでマリア様の祈りなんだけれど、うちの修道院の若い兄弟たちも、実は文語の御祈りが好きみたいで、個人的に祈る時は、文語で祈ってたりするのです。
神学院のクラスメイトでベネディクト会の方がいらっしゃるのですが、その方も個人的には文語で祈ると仰っておりまいた。
信者さんの、それも若い方でも文語で祈られる方は、多いのではと感じます。
俺もまたそうなんですがね、俺の通っていた幼稚園はカトリックの幼稚園で、当時はまだ天使祝詞で祈っていたので、やっぱり「めでたし」なんですよね。
そんなこんなで、まだまだ「めでたし」を祈っておられる方は本当に大勢おられると思います。
それでも、公に祈る場合(教会とかね)は、今や「あべ まりあ」さんなので御座いますが、それってなんか不自然かなと、思うのであります。
只、ここで外国人の兄弟達には、この文語の魅力は全く理解不能らしいのです。
それは単純に、習得した日本語と違うと言う理由だけではなく、祈りを神学的にまた、ラテン語からの日本語訳としてみたら、現在の「あべ まりあ」さんの祈りが適切だとの判断かららしいのですが・・・
文語は、その名称が示す様に、会話に使われる日本語とは随分と違いがあります。
では、何故に文語の祈りを多くの日本人が「良い」と感じるのでしょうか、これは不思議です。
そこで、俺なりに思うのですが、大きな理由に「音」があるのかなと感じます。
まだ第2ヴァチカン公会議前からの信徒さん達だけが、昔を懐かしみながら「文語はいいねぇ~」と、仰るなら理解できるのですが、若い信者さんや、求道者の方達も文語の祈りを「良い」と感じるのですから、「懐かしい」だけが理由ではないように思われます。
そこで「音」の響きとリズムが、日本人の魂と共鳴し、祈りに向かう心を際立たせるのではないかなと、考えてみました。
祈りは、日常から非日常へと、霊魂を誘います。
会社から疲れて帰って来た時、何か悲しい事があり、落ち込んだ時に音楽はそんな心を癒してくれます。
それは、日常から非日常へと精神が以降するからなのかなと感じます。
そんな、非日常へ祈りほど効果的な行為はないかなと思います。
文語で祈るロザリオの響きは、脳内で反響し、日本人の何か「血」で伝わる部分に触れるのかもしれません。
仏教の御経は、インドの言葉のその「音」を漢字に記したものと聞きます、つまり音に意味があるのでしょう。
こんな無謀と思える為さり方で、仏教の経典が出来ているのにも拘わらず、御経は「ありがたい」仏の言葉として連綿と唱え続けられています。
カトリックの祈りは、ヘブライ語、ギリシャ語、それをラテン語に訳したものから日本語に訳されています。
ですから、厳密に言えば、ヘブライ語やギリシャ語からの祈りではなく、ラテン語のフィルターが掛かった祈りから訳されています。
そこには、ヘブライの文化、ギリシャの文化から、中世ヨーロッパの文化のフィルターが掛かった言葉になっている事は、否めません。
しかし、それはキリスト教が、どんな文化圏であろうと、普遍である事の証しでもあります。
ですから、日本は日本の文化のフィルターが掛かった祈りを唱えたとしても、それはキリスト教の普遍さの証しとなると感じます。
日本人の血で祈る、祈らずにはいられない、それが文語の祈りの正体なのかもしれません。
と、言うわけで・・・「めでたし!」