水曜日, 11月 30, 2011

ロザリオ・フォン✝無原罪の御宿りを通して捧げるロザリオ・其の弐







第一の黙想 愛に支えられる幼い命


無原罪の御宿りは、神の愛と両親の愛に満たされて

聖アンナの胎内に宿られました。

母親の胎内で危険に瀕している幼い命が

無原罪の聖母の取り次ぎによって

キリストと聖霊の愛と命

人々の愛情に護られて生かされるよう

祈りましょう。



第二の黙想 真の癒し


無原罪の御宿りは、多くの人に心と体の癒しを取り次ぎました。

無原罪の聖母の取り次ぎによって

病や困難を担っている人が

聖霊に満たされたキリストの癒しに生かされるよう

祈りましょう。



第三の黙想 神の愛と知恵、美しさと素晴らしさ


無原罪の御宿りの神秘は

多くの人々に神の愛と知恵

美しさと素晴らしさを深く思い巡らすよう、促します

無原罪の聖母の取り次ぎによって

学者、教師、芸術家、学生が

神の御業を豊かに仰ぎ見

表現し、分かち合う事ができるよう

祈りましょう。



第四の黙想 真の平和と和解


無原罪の御宿りは、神に心から委ね

より頼む歩みへと招きます

無原罪の聖母の取り次ぎによって

私達が自分の考えや感情にのみ捉われる事なく

三位一体の神に心を開き

世界に真の平和と和解が満ち溢れるよう

祈りましょう。



第五の黙想 兄弟姉妹である被造物

イエズスと聖霊を通して新たな命がこの世界に齎される事が

無原罪の御宿りによって示されました

無原罪の聖母の取り次ぎによって

造られた全てのものを兄弟姉妹として受けとめ

神による新たな調和と秩序のうちに歩む事ができるよう

祈りましょう。

フォントを、大きくしてみましたぁ(*´∀`*)

見易く、唱え易く

さぁ、マリア様にロザリオ・フォンしましょ♥





火曜日, 11月 29, 2011

無原罪の聖マリアの祭日のためのノヴェナ








12月8日は「無原罪の聖マリアの祭日」です。
修道院では、其れに向けて9日間のノヴェナを今日から唱え始めました。

小冊子の前書きには、次のように書かれています。


フランシスカン修道会が紡いできた「黄金の糸」は、
祝福された聖母への絶え間ない愛と信心です。
聖フランシスコから現在に至るまで切れることなく伸び続けるいる糸です。

私たちは皆、「黄金の糸」の一部を成しています。
「この私たちの」祭日の祝いを通して天の御母を讃える時、
私たちの愛と信心を立派に表現することができるでしょう。

すべての心は、祝福された聖母の優しい御手によってその御子に導かれるでしょう。
その御子は、大きな愛に満ちて、けがれなき御母を、私たちの母としても御与え下さいました。


俺の想いは、このノヴェナを修道会内だけでなく、多くの方と御祈りしたいのですが、
全100ページもあるので、とても載せられません・・・(´;ω;`)。。。

それでも、今日の朝に第1日目を祈りながら、涙が止まらなくなり、このノヴェナの愛を伝えたいと強く思いました。

そこで、ノヴェナを載せられないですが、この期間だけ唱えるロザリオを御紹介致します。

「無原罪の御宿りを通して御捧げするロザリオ・其の一」

第一の黙想  御父への信頼

無原罪の御宿りは、意識もないまだ宿りの状態から御父の愛に完全に包まれています。

無原罪の聖母の取次ぎによって、私たちが御父の愛に完全に信頼できるよう、祈りましょう。


第二の黙想  御子による贖い

無原罪の御宿りは、御子による贖いに特別な形で前もって与っておられます。

無原罪の聖母の取次ぎによって、全ての人が

御子による愛の救いに与る事ができるよう、祈りましょう。


第三の黙想  聖霊による清め

無原罪の御宿りは、聖アンナの胎内に宿る時から、聖霊の愛に完全に満たさて清められています。

無原罪の聖母の取次ぎによって、全ての人が聖霊の愛に満たされ

誠の清さに与ることができるよう、祈りましょう。


第四の黙想  罪や悪ではなく、愛に生きる

無原罪の御宿りは、様々な困難があっても、生涯、罪と悪を避け

愛にいきるよう、聖アンナの胎内に宿られました。

無原罪の聖母の取次ぎによって、全ての人が、

より深い愛に生きることができるよう、祈りましょう。


第五の黙想  すべての人の回心

無原罪の御宿りとして御現れになったマリアは、全てのひちの会心と平和を促し、

そのために祈るよう求めておれれます。

無原罪の聖母の取次ぎによって、全ての人が

今日一日、神へ立ち返ることができるよう、祈りましょう。


ロザリオの唱え方は、通常の唱え方と同じです。

これは、「其の一」で、実は「其の二」もあります。
日替わりで交互に唱えると善いと思いますが・・・疲れたから、
明日「其の二」はアップしますね・・・ごめんなさい(´;ω;`)

もし、今日、これを読んで下さったら、おやすみ前のひととき、ロザリオ・フォンで、マリア様にメールを送ってみて下さいね(*´∀`*)




月曜日, 11月 28, 2011

冬の雑めき。







背中から入り込む冷気が不安を生じさせる

低い雲は何故、灰色なのだろう

薄暗い部屋は、散らかったままで

声がない。



ノエルまでと、心に手を差し延べるの

誰かを、傷つけてしまって

時計は俺の人生と無関係に、進んだり停滞したり

放り投げた祈りがありませんか?

そう、天使に諭される

掌から、指の間から摺り抜けてしまう












あぁ、冷気は、心を騒がせる。






日曜日, 11月 27, 2011

洗礼






キリスト者であること。

神の恩寵により

授かった

洗礼。


原罪からの開放。



ここ数日、洗礼を思う。

洗礼ってなんだろ






洗礼を受けている者と、そうではない者

神は、分け隔てを為さる筈がない


けれど、洗礼は救いの証し。



祈りの中で
理解しました。




洗礼を受けた者は

何時、どんな時も感じるのです。



神に、愛されていると。


誰よりも、

主に愛されている。




そうなんです。


俺は、主イエズス・キリストと相思相愛なのです。




それを、はっきりと霊によって解る

それが、洗礼の恩寵。



あ~、すっきりした(*´∀`*)


土曜日, 11月 26, 2011

金曜日, 11月 25, 2011

L'Avent







次の主日から待降節。

修道院も、主を御迎えする準備を進めています。
例年は、修道院の建物にも、ぐるっと電飾をするのですが、今年は日本の司教団が原発全面即廃止を表明し、節電に向かっている為、修道院の電飾も自粛モードですが、それでも少しはやりましょうと、エントランスのマリア様をライトアップ。








馬小屋と云えば、フランシスコなのでありますから、当然外せません。

外の掲示板には、馬小屋を飾ります。

此処は、毎週少しづつ、登場人物が増えていくのであります。

今は、天使ガブリエルとロバさんと、主の小さな藁のベットだけ。

それと、ストーリーテラーとして、フランシスコさまも特別出演なんであります。






てなわけで・・・しゅわきませりぃ~しゅわきませりぃ~。。。な時までワクワクなのであります(*´∀`*)




水曜日, 11月 23, 2011

appel divin









このブログでのやりとりで(俺の名刺の事)ある方の召命の苦悩を知りました。

きっと、カトリック信者の方で、召命(司祭や修道者になる)を御考えになった方は多いと思います。
幼児洗礼であれば、或日、洗礼の恩寵に気づき、成人洗礼ならば、より主の御そばにと・・・

しかし、現実はその道を歩む者は僅かです。
それは、神様がひとりひとりに御与えになっている賜物によってなのでしょう。

人は、賜物を生きるのですから。

神の御旨に従って生きるのならば、どんな生活も義とされ、聖とされるのです。


俺はと云えば、いつも傍にいてくれる誰かが欲しくて、いつも笑っていたくて
その誰かは、いつだって最高に優しくて、俺を支えてくれていたのだけれど

きっと、俺がいつだって、支える力なかったのでしょう。

もし俺に力があって、強くて、もっと愛があったなら

きっと、結婚していた。




主はそんな力もなく、貧弱で、愛の無い俺を、本当に御使いになるのだろうか・・・

そう思いながら、命懸けで祈る日々。

勿論、答えなんてどんな本にも書かれていないし
だから、自分で確かめなければなりません。

それでも、日々は流れて行きます。

あれ程暑かった夏。

でも、もう寒いんです。

今日、修道院では、主を御迎えする準備をしました。

イルミネーションを灯し、馬小屋を造り・・・もう、クリスマスになるのです。

此処にきて、2度目のクリスマス。

去年の降誕祭、涙が止らかった、こんな俺を、愛してくれてる・・・




俺が俗世ではなく、主に招かれているのなら、そうきっと、ずっと想いながら歩いていくのかもしれない。

けれど、主が俺をどうしたいのかは、解らないけれど、主は俺を、愛さずにはいられない事ははっきりと解るのです。

だから主よ、今はこう思わせて下さい。

俺は、愛するため、主を愛するために存在しているのだと。

それが、俺の召命だと。




主イエズス・キリスト、私は御身を愛する他に誇るものはありません。

















イエズスさま・・・






月曜日, 11月 21, 2011

マリアの奉献。






11月21日、今日は「聖マリアの奉献」の記念日。

ある福音書は、マリアの誕生の次第を、こう記す。


マリアの母アンナは子のできない女だった。
アンナは、嘆き神に懇願の祈りを捧げる。

するとごらんなさい、主の御使いが傍に立って言いました。

『アンナ、アンナ、主がお前の願いを聴き入れて下さった。お前は孕んで子を生むだろう。
お前の子の事は世界中で語られるだろう。』

そこでアンナが言いました。

「生ける私の主に誓って、男の子でも女の子でsも、私の主なる神様に供えもとして御献げいたします。私の子は生涯全てにの日渡って神様に御仕えするでしょう。」

中略。。。

月満ちてアンナは、女の子を産みました。
日が満ちると、定めに従いアンナは身を潔め、赤ちゃんに乳を飲ませ、その子を『マリア』と名付けました。
嬰児は日に日に健やかに育ち、6ヵ月になったとき、母親は嬰児を地面におろし、立てるかどうか試しました。
すると7歩、歩いて母の胸に縋りました。そこで彼女は嬰児を抱き上げ言いました。

「生ける主なる私の神に誓って、お前を主の神殿に連れて行くまで、お前はこの大地を歩む事はありません。」

中略。。。

さて、嬰児に月が増し加わり、2歳になった時、父ヨアキムは母アンナに言いました。

「私達が建てた誓願を果たすため、マリアを主の神殿に連れて行こう。主が私達に誓いを破った罪として御使いを派遣し、また私達の嘉納されなくなるといけないから。」

するとアンナが言いました。

「マリアが父さん母さんを恋しがらない様に、もう1年待ちましょう。」

そうして、マリアは3歳になりました。(3歳のマリアさまだって。。。可愛い(*´∀`*)。。。)
するとヨアキムが言いました。

「ヘブライ人の汚れのない娘を呼び、ひとりひとりに灯火を持たせ、灯をともさせない。マリアが振り返って、その心が主の神殿から誘い出されないように。」

そこで人々は一行が主の神殿に上ってしまうまでそのようにしました。っすると祭司はマリアを迎え入れ、接吻してマリアを祝福し、言いました。

「主はあなたの名を代々にわたって大いなるものとされた。終の日に主はあなた故にイスラエルの人々に贖いを現されるダリう。」

そうしてマリアを祭壇の階段の3段目に坐らせました。
すると主なる神はマリアの上に恵みをおかれたので、マリアは喜んでその足でもって踊りました。
そしてイスラエルの全家族はマリアを愛でたのでした。

マリアの両親は、マリアが父、母のもとへ戻ってこなかった事に驚き、主なる神を讃えながら下がって行きました。

マリアは主の神殿で鳩のように養育され、天使の手から食物受け取っていました。


ユダヤ教には、「ナジル人」と呼ばれる、神に奉献した人たちがいます。
その、ナジル人にも、大きく分けて2パターン存在します。

ひとつは、所謂、願掛けの様な事をする、ナジル人です。
特に、長旅などをするユダヤ人は、その旅の期間だけ自らを神に奉献しナジル人となります。
旅が終われば、その請願は解かれるものと、もうひとつは、この「マリアの奉献」のように、生涯を神に奉献するナジル人です。

洗礼者ヨハネも、きっとこのナジル人として神に奉献されのではと思います。

この、福音は聖典から外された福音書ですが、当時のイスラエルの宗教文化を垣間見る事が出来るコンテキストだと感じます。

この福音書に書かれていることを、信じる信じないではなく、聖母マリア様が、カトリックの修道女のように御暮らしなっていたと想像すると、奉献生活を行なっていこうとする者には、大いなる慰めと力を与えれるのです。

聖マリアに感謝。

主なる御父に賛美と感謝。アーメン。





日曜日, 11月 20, 2011

王たるキリスト









福音の主の言葉。




そこで、王は右側にいる人たちに言う。


『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、

のどが渇いていたときに飲ませ、

旅をしていたときに宿を貸し、 
裸のときに着せ、

病気のときに見舞い、

牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 

すると、正しい人たちが王に答える。

『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、

のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、

裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 






そこで、王は答える。

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、

わたしにしてくれたことなのである。』 


・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・


俺たちの愛する王は、煌びやかな衣装を纏っていたのではない。

俺たちの唯一の王は、荘厳な宮殿に住まわれて居たのでもない。

埃にまみれた、粗末な服と、荒れ野にその日の眠りを委ねた。

満天の星空の下、王は枕する庵すら持たずに、愛を伝える。

俺たちの道である王は、弱く貧しい自らの国の民に、こう諭す。


・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・


『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。

今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。

今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。 

人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、

あなたがたは幸いである。 

その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。

この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。』


・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・✝・・・・・


王は、自ら貧しく、飢え、泣き、そして世に憎まれた。

王は、自ら施し、食べさせ、共に泣き、そして笑った。

王は、誰をも愛した。

王が、俺たちに希望し、願い、唯一命令した事。

この王を戴く全ての民に、焼きつけられた、しるしを、王は自ら示された。


ならば、何を自分の為に、残しましょう。

貧しい躰に、永遠に消える事無い痛みと伴に、押し付けられた焼印、それだけを糧として

主よ、御身の愛に信頼します。




永遠の王たるキリストは讃美せられさせ給え。





金曜日, 11月 18, 2011

文語でOra








マリア様の祈りが、「めぐみあふれる・・・」から「アヴェマリア・・・」に変更になって
共同体でも慣れてはきたのですが、俺としては未だに違和感ありなので御座います。

まず、冒頭の「アヴェマリア」が、日本語的発音すると、「阿部まりあ」的なるし、かといって
ラテン語風に「Ave Maria」と発音すれば、なんかキザっちいでしょ(´;ω;`)

そう、阿部まりあと云えば、昔、みずきありさ主演の「天使のお仕事」ってテレビドラマで、主人公の名前が「あべ まりあ」だったなぁ、あのドラマ典礼的には、それはないでしょって箇所はあったけれど
先輩シスターが罪を犯したと感じた時に、御聖堂で詩篇51を唱えるのが良かったなぁ・・・




ん・・(メ・ん・)?なんの話し、してたっけか???

そう、それでマリア様の祈りなんだけれど、うちの修道院の若い兄弟たちも、実は文語の御祈りが好きみたいで、個人的に祈る時は、文語で祈ってたりするのです。
神学院のクラスメイトでベネディクト会の方がいらっしゃるのですが、その方も個人的には文語で祈ると仰っておりまいた。
信者さんの、それも若い方でも文語で祈られる方は、多いのではと感じます。
俺もまたそうなんですがね、俺の通っていた幼稚園はカトリックの幼稚園で、当時はまだ天使祝詞で祈っていたので、やっぱり「めでたし」なんですよね。

そんなこんなで、まだまだ「めでたし」を祈っておられる方は本当に大勢おられると思います。
それでも、公に祈る場合(教会とかね)は、今や「あべ まりあ」さんなので御座いますが、それってなんか不自然かなと、思うのであります。
只、ここで外国人の兄弟達には、この文語の魅力は全く理解不能らしいのです。
それは単純に、習得した日本語と違うと言う理由だけではなく、祈りを神学的にまた、ラテン語からの日本語訳としてみたら、現在の「あべ まりあ」さんの祈りが適切だとの判断かららしいのですが・・・

文語は、その名称が示す様に、会話に使われる日本語とは随分と違いがあります。
では、何故に文語の祈りを多くの日本人が「良い」と感じるのでしょうか、これは不思議です。

そこで、俺なりに思うのですが、大きな理由に「音」があるのかなと感じます。
まだ第2ヴァチカン公会議前からの信徒さん達だけが、昔を懐かしみながら「文語はいいねぇ~」と、仰るなら理解できるのですが、若い信者さんや、求道者の方達も文語の祈りを「良い」と感じるのですから、「懐かしい」だけが理由ではないように思われます。

そこで「音」の響きとリズムが、日本人の魂と共鳴し、祈りに向かう心を際立たせるのではないかなと、考えてみました。
祈りは、日常から非日常へと、霊魂を誘います。
会社から疲れて帰って来た時、何か悲しい事があり、落ち込んだ時に音楽はそんな心を癒してくれます。
それは、日常から非日常へと精神が以降するからなのかなと感じます。
そんな、非日常へ祈りほど効果的な行為はないかなと思います。
文語で祈るロザリオの響きは、脳内で反響し、日本人の何か「血」で伝わる部分に触れるのかもしれません。

仏教の御経は、インドの言葉のその「音」を漢字に記したものと聞きます、つまり音に意味があるのでしょう。
こんな無謀と思える為さり方で、仏教の経典が出来ているのにも拘わらず、御経は「ありがたい」仏の言葉として連綿と唱え続けられています。

カトリックの祈りは、ヘブライ語、ギリシャ語、それをラテン語に訳したものから日本語に訳されています。
ですから、厳密に言えば、ヘブライ語やギリシャ語からの祈りではなく、ラテン語のフィルターが掛かった祈りから訳されています。
そこには、ヘブライの文化、ギリシャの文化から、中世ヨーロッパの文化のフィルターが掛かった言葉になっている事は、否めません。
しかし、それはキリスト教が、どんな文化圏であろうと、普遍である事の証しでもあります。
ですから、日本は日本の文化のフィルターが掛かった祈りを唱えたとしても、それはキリスト教の普遍さの証しとなると感じます。

日本人の血で祈る、祈らずにはいられない、それが文語の祈りの正体なのかもしれません。


と、言うわけで・・・「めでたし!」



木曜日, 11月 17, 2011

聖務日課のすすめ。







修道院では祈りをします。

この当然の様に思える、事。

でも、此処に来る前は、立ち入れない、祈りの世界だった。

そして今も、共同での祈りは、当然とも、当たり前とも思えない時間なのだ。


・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・✝・・・・・・・


「教会の祈り」、聖務日課と呼ばれる、御祈りの本を御存じでしょうか。
1冊あれば、一生もん的な御祈りの本なのですが、これには冒頭に「総則」と云う、祈りと典礼に関して事細かに記載されている、まるで保険に入ると証書と送られてくる、約款みたいに細かい字書かれた部分であります。

しかしこの「総則」はかなりの優れモノで、多くの事を教えてくれるのです。

「教会の祈り」は、司祭や修道者の為の「本」ではありません。
洗礼によってキリストに結ばれた、神の民の全ての祈り。序文には書かれています。

教会の祈りは、時課の祈りと呼べれていました、古くは日に7回の時課があったそうですが
現在は、修道会によって異なりますが、早朝、朝、昼、晩、就寝前がポピュラーです。

その中でも、朝と晩は特に重要な時課の祈りとなります。
小教区(教会)によっては、朝ミサを毎朝行なっている所もあるので、そこでは朝の時課の祈りの後に御ミサを捧げる事をしていると思います。
そんな、教会なら、この「教会の祈り」を唱える事が出来ると思いますが、近隣にそうした教会が無いと、「教会の祈り」の本を知らない方もいらっしゃるのではと思います。
しかし、この時課の祈りの恵みは、とても大きいものです。
総則ではこれを、1日を聖化すると喩えています。

祈るのは、詩編。

第1週から4週分の時課の詩編、1ヶ月でまた、第1週日に戻ります。
つまり、4週間毎に同じ詩編を唱える事になるのです。

けれど、初めて唱えると思える事が屡々起こるのです。(俺の記憶力に問題ありかなぁ?)
それは、とても新鮮に心に響きます。
悩みの中に在る時には、慰めを与えてくれます。
喜びの時には、共に主に賛美を捧げてくれます。

こんな、優れモノを、修道者だけの祈りみたいにして置くのは、神様の御旨に反するってもんでしょう。

共同体の中で祈る事が、難しい状況や環境におれれる信者さん方でも、ひとりでもその恵みは感じることでしょう。



毎朝、朝の時課を唱えながら、喜びと感謝を感じます。

この素晴らしいカトリックの伝統を、多くの信者さんと共に祈れたらと思います。

「教会の祈り」の本、少し値段が高いかもしれませんが。

朝6時、小さな御聖堂で祈っている俺と、今、何処かで同じ様に祈っている、多くの誰かが存在していると思うと・・・






一緒に詩編を唱えましょう(*´∀`*)






水曜日, 11月 16, 2011

小さなマリア様。






高校生の頃に買った小さなプラスティックのマリア様。
池袋のパルコで買った、雑貨屋さんに、同じマリア様が沢山並んでいた。

みんな同じだけれど、微妙に違ってて、本当に悩んで、悩んで選んだのを、
この小さなプラスティックのマリア様を掌に載せて思い出した。

とってもチープで、暗がりではボーっと光る。おもちゃみたいなマリア様。

でも、少し子供っぽい御顔のマリア様は、近く居てくれた。


修室には、幾つものマリア像がある。
どのマリア像にも、想い出があって、みんな大切だけれど、このプラスティックのマリア様は
いつも傍にある。
丈夫で割れたりしないから、ポケットに入れて外出するから

20年以上も一緒だから、薄汚れてしまったけれど。

身長5cmの、小柄なマリアは、いつも傍にいてくれた。


電車の中、歩いている時、誰かを待っている時

ポケット中、ちんまりしながら、俺を護ってくれていたみたいですね。

そして、連れてきてくれました。

此処、マリア様のお家に。




めでたし、天の女王。



めでたし、神の母。






水曜日, 11月 09, 2011

アヴェ・マリアな名刺。






Ave Mariaの御祈りカードを作ってみました。




で・・・ついでだから名刺にしてしまいましたぁ~(*´∀`*)


でも、俺の名刺なんか、誰もいらないだろうし、配る時もないよなぁ。。。(´・ω・`)












マリア様は、貰ってくれるかしら・・・














火曜日, 11月 08, 2011

méduse













ずいぶん前
くらげを
飼いたいと思った。


くらげは
死ぬと
水になる
聞いたから


ヨーロッパでは
くらげを
medusa
謂う

そう
あの
髪の毛
様に
持つ
女神

英語
Jellyfish

心が
無い
ネーミング


medusa
素敵

漢字

海月

そして

水母

どちらも
女性名詞

そして
暖かい

であり
であり
であり


想像
しましょう

静かな夜の海に、月が映ります。
漆黒の海の中を
漂う
海月達。

静かに、波に任せ
しかし
想いを
その
透明な肢体に
顰める


母マリアのように



くらげは死ぬと水に帰る


人は死ぬと土に帰る



陸と海


愛する
母なる惑星
そこに
帰る





くらげも
祈るだろうか



くらげを飼いたかった




不意に
それを
思い出しました。








月曜日, 11月 07, 2011

マリア様との携帯電話








修道院では携帯電話を持つ事は御法度なのです。(神父様方は必要に応じて所有します)
俺も、此処に入会する時に所有していた携帯電話を解約したのであります。
入会前は、携帯の無い生活など考えられない程、常に手に持って、ポチポチとメールを打っていたものです。
想えば、携帯が出始めた頃、ピッチ(PHS)を務めていた会社で誰よりも先に持って、皆に顰蹙をかったものですが、あれから10年と少しの間に、今やスマートフォン・・・(触った事もない)
ポチポチのボタンは何処へやら・・・な時代となっているようです。

最近では、電車の中で、殆んどの方が、そのスマホを手に取り、心の言葉を飛ばしたり受信したり為さっている姿が、不思議に感じてしまう程に携帯電話から遠ざかってしまいました。

さてさて、そんな時代遅れなホスチアこと俺、愛ちゃんですが、それでも電車の中で手に取りポチポチと心の想いを送信しているのです。
掌にはスマホではなく、ロザリオを携えながら。




送る相手はマリア様。




かなり一方通行なメールなのですが、でもたまに御返事を下さいます(*´∀`*)

(マリア様は、ツンデレかも・・・失礼致しました゚(゚´Д`゚)゚)

この、ロザリオなのですが、此処に来る前は、けっこうなコレクターで、色々と集めていたのです。
大部分は、友人や信者になりたいと言われた方々にあげてしまったのですが、それでもまだまだ、残っていたりします。
高価なロザリオから差し上げてので、今、手元にある物は大した物ではないのですが、このマリア様との携帯電話は機種や機能を余り必要としないと言うのが素晴らしいのであります。

中には、特別な意向の為のロザリオもありますが、それとて通常のロザリオで充分にその想いは送信出来るのですから、優れモノです。

そんな、俺のコレクションから、数点写メってみました。

1番上にある白い珠のは、1500年代のアンティーク物であります。
何の石か解らないのですが、乳白色の天然石なので、珠の大きさと形が不揃いなのですが、それがまた味わい深い一品で御座います。また、十字架とセンターメダイは銀製となっております。

次に、中央にある、大きな珠のロザリオは、聖母の7つの悲しみのロザリオ。
焦茶色の珠は直径2センチ程で、ロザリオの長さは1メートル以上もある特大ロザリオです。
仕上げは、全て手編みの鎖で御座います。

その特大ロザリオの上、聖コルベ神父様のメダイが付けられているのが、日々使用している
まい・ふぇいばりっとなロザリオで御座います。
珠は「無患子」の実ですが、やや小粒の8ミリから10ミリ珠で構成されております。
このロザリオの優れたところは、各珠の間にも手編みの鎖が2連づつ入れられており、より珠が繰りやすくなっておりますところでしょう。
長さも60センチ超と大きめなロザリオとなっております。

その下の紐による手編みのロザリオは、マテリアルはオリーブの木で御座いますが、上に物は通常の5連のロザリオですが、下の物は、フランシスカン独特の、聖母の7つの喜びのロザリオで、これは、10珠7連のロザリオとなっているのが、特徴で御座います。




しかし、こんなロザリオに凝っていては、寛徳への道は程遠いんだろうぁ゚・・・・・・・(゚´Д`゚)゚








木曜日, 11月 03, 2011

病気の内の念禱







ここ2週間、風邪で調子が悪い、昨日は神学院に行ったのだけれど
3限目は、頭痛と寒気で、空いている修室で休んでしまった・・・

先週は、殆んど修室のベットの中で・・・情けな事だと感じながらも安静にしていた。






病気で寝込んでいると、普段より多く祈る。





これも、神様からのプレゼント。

風邪で寝込む程度なら、絶望なんて事のはならないのだけれど
10年程前に、頸椎を傷めて入院した時には、それまで味わった事無い
絶望感に襲われた。
仕事も、生活も、近い将来の計画も全てそこでストップ・・・
先も考えられない、ノー天気な俺でも途方に暮れた。

医師からは「後、一回転倒したら死にますよ。」と言われ、その医師の真顔に青くなった。

その頃の俺は、神様は存在すると感じてはいたが、人は神から自立しなければならない、
なんて考えていた、神に頼るから人間は大人になれないんだ、なんてね。

緊急入院から1週間程で、手術となった。
絶対安静が解けると、リハビリを行う、1ヶ月も寝たきりでいると歩けなくなってしまうからだ。
幸い入院した病院は整形外科では有名な病院で、リハビリも一流の医師と看護師達が揃っており、患者の病状に合せたプログラムを作成してくれ、効率良くリハビリが行えました。

リハビリ室は小さな体育館程の広さを持ち様々な運動器具が置かれて、御近所からリハビリに通う御老人達と仲良くなったりもしました。
そんな御老人の中に沖縄のおばあちゃんがいて、よく話しをしていました。
その、おばあちゃんに最初に会った時に、こう言われたのです。

「あんた、神様に護られてるよ。」

聞けば、おばあちゃんは、沖縄のノロ、沖縄独特の宗教のシャーマンとの事。

そう言われて、なんと返事をしたらいいのか判らず、照れ笑いをしながら御礼をいったのですが、その言葉は入院中ずっと心に残っていました。
まるで、小さな棘のように・・・



入院は約4ヶ月間程にもなり、あれ程絶望していたのが嘘のように、入院ライフを楽しむまでになっていました。
Happyなんとかと言う頸を完全固定する、器具を着けていましたから(これが、宇宙人みたいなんだよね)見た目にはかなり痛々しいのです。
それで立って押して歩く歩行器に捕まりながら、用も無いのに外来のフロアーをウロウロしたり(そんな見た目ですから、歩くと人が左右にパーっと広がるんです。。。それが楽しくて)

それでもやはり入院生活は不安が付き纏うものです。

ベットに横になりながら、窓の外の桜の樹をよく眺めては、考えていました。
入院した頃は、まだ葉もついていない桜の樹にちらほらと薄桃色の花が咲き、あっという間に満開になり、そしてまた、あっという間に散ってしまう。
そんな季節の美しさと儚さを愛でながら、あの沖縄のおばあちゃんの言葉が聞こえてくるのです。

「あんた、神様に護られてるよ。」

神様は思いもよらない為さり方で、その愛を示されます。

小さな野の花と、それに集まる虫たちや、心いっぱいに広がる桜の花や、風の音、水の匂い
おばあちゃんたちの笑い声、ナースさんの心遣い・・・

どれもこれも、神様の愛で満ち溢れているのです。



それから、10年経ちましたが、こうして風邪だけれどベットに横になっていると、あの入院の事を思い出します。





「あんた、神様に護られてるよ。」


今も、神様は俺たち皆を、護って下さっています。

その愛に、到底応える愛を示す事は、俺にはまだ出来ないでしょう。
けれど、此処にいて自分の全てを神様の愛に御捧げる事に、もう何の躊躇いも無い事は
きっと、少しは喜んで下さると思います。



病気で寝込む時、イエズス様は、いつもより長く御話しをなさりたいと
思っておられるのかもしれません。






主イエズス様に感謝。










火曜日, 11月 01, 2011

聖テレーズが見ていた景色




今日は、カトリックの教会暦では「諸聖人の日」、祭日である。
カトリック信者なら、きっと誰でも尊敬し、好きな聖人が、
聖母マリア様は別格として、その他に必ずひとりは存在するでしょう。

俺にとっての、そんな聖人は
「幼きイエズスと尊き面影の聖テレジア」
フランスはリジューのカルメル会の修道女。

俺が、説明しなくとも、その生涯はよく知られた聖女である。

幼い頃から、イエズス様とマリア様を慕い、若干15歳でカルメル会に入る
その霊性は、小さき子供の様な道、
聖女は、その短い生涯の中で実践し、3冊のノートに書き留めた。
今、カトリックは、聖女を教会博士とし、その信仰と霊性を信者の手本にとする。





テレーズは、何を見ていたのだろう。

何を見ようとしていたのだろう。





それは真に命懸けで、主イエズス・キリストだけを求め、見ていたに違いない。

キリスト教の信仰は本来そうした行為なのだけれど、そうする事は周りとのバランスを欠く事にもなるのだろう。
社会生活の中で、そうした事は、起こりうるのだけれど、教会の中でもさして違いはないのかもしれない。

信仰は、ひけらかす様な類のものではないが、キリストを、キリストだけを求めていると
それを隠しようのない自分が存在してしまう。

さすれば、心無い言葉や態度に遭遇する事になるのだが・・・



少し落胆した心に、主は御言葉を下さった。



「わたしにために罵られ、迫害され、身に覚えのない事であらゆる
悪口を浴びせられるとき
あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。」マタイ5:11~12




今日の福音箇所・・・。

多分、テレーズも、少し浮いた存在だったかもしれません
けれど、テレーズが見ていたものは、見ようとしていたものは
その時の生活と天秤に掛けられる様なものじゃなかった。



俺は、聖人の様な、強い信仰を持ち合わせているわけではないけれど
俗世に在る事よりも、この道を、主に示されたと感じ、此処にいる。

だから、見ていたい
だから、見ようとし続けたい
身体の細胞ひとつひとつが、主よ!と叫ぶのだから
霊が魂が、その叫ぶ身体をも疎ましいと感じる程に

主の示された御言葉通り

喜びましょう。大いに喜びましょう。




テレーズが見ていた景色を、見に行くために。