修室を出ると冷えきった大気が廊下に張り詰めている、銀板の様な冷たい床が素足には痛い
それでも、母親のベットに潜り込む子供なように、御聖堂に向かう。
臆病な子羊のように・・・
自席には座らず、御聖櫃に向かい、床に座る、
いつもの様に。
主に問うのです。
御父は、そのひとり子を世に渡される程に、人を愛された。
ヨハネ福音書には、神の愛を、そう記す。
渡された愛は、御言葉、もう声ではない、言葉は人の心に刻まれた。
ひとり子は、その愛に応答し御旨を全うされる。
キリストの愛は、眼に見える姿で、そこに在った。
十字架と共に・・・
傍らには、母が立つ。
母もまた、愛で在った。
この唯一の愛には、情など入り込めない
凛として、愛なのだ。
それは、人のこころには、確かに非情と映る瞬間が存在するのだろう。
恰も自然の驚異の如くに、宗教はそれに倣う。
ここにドグマが存在する、揺るぎない教えとして。
では俺は、このドグマ故に信仰を持つのだろうか?
否、そうではない・・・きっとそうではない。
信じたから、キリストの愛に触れ、一瞬で焼き尽くされてしまったから
信じているのです。
信じたから、此処にいる。
信じたと言ってしまうと、俺に選択権があるようで言葉が違う。
俺が信じようがいまいが、愛は在る。
そうきっと、この永遠に在る愛を、「さぁ、持ちなさい」と、渡されたのです。
大切にされる保証もなく、寧ろ棄てられてしまうかもしれない危険の中に渡すのです。
2000年前のべトレヘムの馬小屋のその日と同じに
何故なら、神が俺を信じているからです。
それでも、俺は、人は、冷淡な生き物です。
愛に在る事よりも、人の愛情に惹かれてしまう。
滑稽でしょう、虚しいでしょう、情け付きの愛なんて・・・
俺達はこの情け付きの愛に、悲しんで、傷ついて、憤って、恨んで、妬んで、切なくなって、惑わされて、迷子になって、それでも喜んで、笑って、優しくなって、抱き合って、癒されて、
共に生きています。
そうです、神様・・・御身の愛には届きません。けれど、そう造られたのは御身御自身です。
洗礼・・・水洗いによって回心を行なっていない者も、
御身は強烈な痛みの愛で御救いになられました。
最愛の御子、主イエズス様を世に渡す事で、御救いになられました。
降誕祭のミサの時に、はっきりと俺に御見せになられた
司祭の掲げるホスチアは、丸いパンではかった、裸の産まれたばかりの赤ちゃんでした。
しっかりと両手に主を持つ、その腕の先には神父様ではなく
遠い眼をされ、口を真一文字に閉じ、声のない叫びを上げながら御子を差し出す
マリア様がおいでになりました。
こんな愛に、これほどの愛に俺はどう応えたらよいのでしょう・・・
情け付きの愛しか持たない俺に・・・
随分と時間が経ちました、顔を上げると大きな聖書が浮かんでいました。
そこから声がします。
聖書 『アブラハムがイサクを神に捧げる、その時に神はどうされたのですか?』
俺 「御使いを送って、止めました・・・」
聖書 『神は情け深い御方なのです。』
イエズス様、洗礼と信仰によって、御身の霊と繋がる事で、
神を「アッバ、父よ!」呼べる、この恩寵のうちに存在出来る事を俺の全てを捧げて感謝します。
マザーの行いも、ガンジーの選択と生涯も、仏陀自身の存在も、
洗礼を承けずに亡くなった赤ちゃんも
情け深い、そう神の愛情によって義とされるのです。
情けは、虚しい。けれどその傍らには愛が、神の愛がいつも寄り添っているのです。
そして御父は、アブラハムを止めたにも拘わらず、御自身は主イエズス様を捧げられ、御身の御創りになった愛の掟を全うされる、「愛」そのものです。
その「愛」に全き信頼と、壮絶な御自身の愛で御応えになられたのが、マリア様・・・
主よ、感謝致します。
俺は、愛情しか未だ持ち合わせていませんけれど、
この道が情けを十字架として進むカルワリオの道だと、気づきました。
そして、進む先には 「愛」 が在るのでしょう。
主よ、辿り着けたその時には、「情」の鎖を断ち切って、
一糸纏わぬ姿で御身の前に立たせて下さい。
そして一切の影が消え失せ、霧が晴れるように御身と顔と顔を寄せ合いましょう。
どうか、その時には俺の名を御呼び下さい。
『愛よ。』、と。