月曜日, 12月 26, 2011

愛と愛情そして洗礼と救い・・・宗教的多元論・其の壱










ちょっとコアな話し。

皆様、主の御降誕おめでとうございます。

いよいよ今年も残り僅かとなってまいりました。
もう大掃除はお済みですか?

ホスチアは・・・まだです(´;ω;`)・・・ドウシヨウ


そんな、面倒臭さがり屋な、ホスチアで御座いますが、夕べは熱くなってしましました。

夕べの修道院では、クリスマスの囁やかなパーティーを行いました。
ビールを飲んで、ワインも飲んで
微酔い気分になった時に、何故その話題になったのか・・・?覚えてなのですが
多元主義の話になっておりました。
そんな中、洗礼を受けていない者は救われるのかと、修道院らしいと云えばらしいのですが
宗教者を志す者、そして司祭の共同体とは云え、そうした話しをするのは余りないのです。
しかし、お酒も入っている事もあり、また各々は黙想、念禱の内に様々な御言葉に触れ感じている思いがあります。
それは俺も同じなわけで・・・で、激論と相成りました゚(゚´Д`゚)゚

カトリックの伝統では、救われるには秘跡が必要不可欠と教えます。
そしてその中でも、洗礼の秘跡は神からの大いなる恵み、そして人からは信仰の表明であるのですが、多元論的に捉えれば、カトリックの洗礼を受けていなくても、各々神や仏によって救われるとなるのです。
この思想からすると、洗礼の有無と救いは関係ない事になってしまう。
洗礼、その恵みを痛いほど実感している俺としては、この考えに真っ向勝負となりました。


(`・ω・´)ドッカラデモ、カカッテラッシャイ! ウッシャーッ!!!


カテキズム的には、俺の思いは正しい事でしょう。
けれど、ここで大きな問題定義なされます。

「じゃあ、ガンジーは救われないの?」

・・・・・・・・(´・ω・`) ヘェッ

「マザーが、死に逝く他宗教の方に洗礼を授けず、
その方の宗教で送る事は間違いなの?」

・・・・・・・・(´・ω・)オロオロ

「ブッダは救われていないの?」

・・・・・・・・(m´・ω・`)mカリカリ

「洗礼を授かる前に、
亡くなった赤ちゃんは救われないの?」

・・・・・・・・(´;ω;`)クスン

しかし・・・ここで、たじろぐ訳にはいきません。
神は、そのひとり子を受肉させ、世に渡す事で救済計画の最終兵器を投入されました。
そして主イエズス様は、人として苦しみながらも、父である神様の御旨を成し遂げられました。

つまり、人類は既に救われているのです。
この救いの完成については、俺もそう感じていますが、
洗礼の恵みの本質は個人の救いではないと思っている俺としては、
洗礼の有無での個人的救いという観点では無く、
神の恩寵としての洗礼の必要性を主張するのでありました。

この神の恩寵とは、神から愛されている事に気づき、その愛の深さを思い知る事です。
その神の愛を知った者は、自らをその愛に奉献し、愛そのものに変化する事を目当てとする様になるのです。
だからこそ、「天に行われる如く、地にも行われんことを。」と、俺たちは祈るのです。

激論は、結論を見ないまま、御開きとなりました。

俺の、心の中では、そんな自分の想いが正しいのかと、ガンジーを思う時、仏陀を思う時、そしてマザーの行いを考える時に、揺らぎます・・・。

修室に戻り、窓を全開にし・・・考えていました。
けれど、答えがでません、ウィキペディアにも答えはなくて・・・ソンナモンミルナッテ
こんな答えの出ない時には、直接御本人に御聞きする事にしています。

そんな訳で、迷える子羊ホスチアちゃんは、御聖堂に向うのでありました。















Be continued........(;゚Д゚)!





3 件のコメント:

  1. 映画「エミリーローズ」の冒頭で、神父様が
    弁護士に「君はカトリックか?」
    とたずねたとき、弁護士は「いいえ不可知論者よ」と答えます。神父様は「じゃあカトリックだ」と仰ったのが印象に残っています。
    ヤヲヨロヅの神様を信仰していようと、ラクシュミ様を
    信仰していようと最終的には天の御父に出会うのだと思うのですが、洗礼をうけとると、回り道や迷い道にはまりにくくまっすぐ導かれやすいんじゃないかなあ、、と思ってます。(落とし穴嵌りまくりデスガ)

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  2. プルプルしてる羊、可愛すぎます( *`ω´)

    しかしこれは難しい問題ですね!
    知り合いのノビスがこの問題ですごく悩んでいました。。。

    VC2以前なら、洗礼なしの救いは基本的にアウトだったでしょうね。カテキズム、教会憲章ですと、条件と解釈によってはあり得るかなぁ…って感じですが。少なくとも現在の救いへの条件は、神学大全で言及されている条件よりは、クリアしやすくはなったのではないでしょうか。

    カトリックはあくまでもドグマの宗教だから、本当に難しいですよね。クレドを唱えている信徒としては、教理外の解釈はすべきではないとはいえ、それはそれで神の無限性を限定してしまう気もしますし。悩ましい…。

    答えの出せないグレーゾーンですねぇ。エキュメニカルの観点から、近代では殊にもにょもにょしてますね。私自身は、神の恩寵を信頼し、委ねるしかないと思っています。

    ただ、リベラリストと言われそうですが、ベネディクト16世が『DOMINUS IESUS』を出しているのは一つの答えではあるでしょうね〜。

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  3. リアンさん、ファントムさん。

    実は俺の中では答えを、戴き、今のところ解決したんです。
    それは、其の弍にて書きますね。

    愛か愛情か、信仰か愛か・・・それと・・・

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