土曜日, 2月 26, 2011

祈り。





祈って下さい
誰にも知られず 気づかれず
時にベールの下
時にロザリオの珠
誰もいない聖堂で
誰も来ないあなたの部屋で
愛する見知らぬ人へ

祈って下さい
誰かとあなたは祈り合う
祈りと祈りは出逢います

祈って下さい
今宵、祈り逢うために



金曜日, 2月 25, 2011

小部屋のマリア。








長崎の本河内教会の大聖堂中には、聖コルベ神父様の小さな御聖堂がある。



聖者の全身の肖像画と聖遺物の頭髪、そして五月に列福される前教皇様、ヨハネ・パウロ2世が使用した

椅子と膝まづき台が、その小さな御聖堂の中に置かれている。



大聖堂の明るさとは対照的に、薄暗い小聖堂には小さなステンドグラスの窓から差し込む光が、影を作り悲しみの中にも希望を、そう光の天使達が歌っているようだ。





聖者、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父様は、信心会・聖母の騎士会を創立された程に、聖母マリア様へ信頼されておられました。

聖母に無原罪の聖母に寄り頼む事が、主の救いに与る最も安全で最速の道だと。



その聖コルベ神父様の肖像画の横には、御手を広げた聖母の御像が、優しい笑みを浮かべています。



ものごころが付いた頃、父の書斎の本棚に、マリア様の御像が置いてあるのに気づき暫く眺めていた事を、この小さな聖堂のマリア様を見つめながら想い出した。



マリア・・・なんて安らかな響きなのでしょう。

マリア・・・なんと柔らかく暖かな音なのでしょう。



コンベンツアル聖フランシスコ修道会・日本管区は伝統的に、挨拶を「マリア」と言います。

その伝統も最近は薄れてしまったのか「マリア」と挨拶する事も殆んど無くなってしまっているのですが

長崎の修道院、食前の祈りの後、「マリア」と言うのでした。

少しくすぐったい、その響きの中に、確実に今、マリア様がこの食事を共になさって下さるのだと感じながら、心の中でもう一度、



「マリア・・・」と呟いていました。








マリア・・・なんて安らかな響きなのでしょう。

マリア・・・なんと柔らかく暖かな音なのでしょう。





水曜日, 2月 23, 2011

すこしづつ

子供の頃、大好きな物を眼の前にすると、慌てて、急いで母親に叱られた。

「もっと、落ち着きなさい」


デザインの仕事をしていた時、プレゼンの資料やデザインを上げるのに

大抵は時間が足りなかった。

その為、しっかりとコンセプトを把握しないまま、見栄えの良いデザインに走ってしまう

けれどそんなデザインでは採用される訳も無く、たまたま採用されたとしても

デザイナーとしての良心が痛み、採用後にもう1度、デザインし直していた気がする。
仕事は非情な行為なのかもしれないけれど、仕事をこなすのも、仕事の成果を期待するのも人と人。


大きな消費社会の中で、販売と大きな関わりのある仕事をしていた時でも
表現したかったのは、もしかしたら「愛」だったかもしれない。


否、愛が欲しかったのかもしれない。


愛されたいと願い、生きていたのでしょう。
賞賛される仕事をして・・・愛されたい、と
それも、早急に。
自分は傷つかないまま・・・


そんな、身勝手な男をさて、いったい誰が愛するでしょう。
そして、いつも淋しいまま・・・


神様の存在を体験した時、イエズス様の声に触れた時
そんな自分を、辞めていた。


気がつけば此処に居て、気がつけば愛される事を放棄して
唯、愛していようと熱望してる、自分が存在していた。
そう堅い決心や決意が「その時」にあったのか
忘れてしまったけれど・・・
時間はゆっくりと流れて、その流れに浮かぶ小舟に乗っていたように



此処にいる。





修道院の中庭、マリア様。
大好きなマリア様、けれどもう急がない
貴女の愛を欲しいとは思いません。


貴女の様に、唯、愛する存在になれるよう
貴女の様に、主の御旨に生きる事だけを目当てにし

ゆっくりとゆっくりと、すこしづつ。