月曜日, 12月 05, 2011

愛で生きる・幼きイエズスの聖テレーズの詩









日曜学校のクリスマス会が近づいて、子供たちに心ばかりのプレゼントをと思い、
久しぶりに四谷の「ドン・ボスコ」へ、おかいものに行ったのであります。

ドン・ボスコには、出身教会の信徒さんが働いているので、暫く振りに会えるかなと思ったのですが、店頭にはいませんでした・・・・クスン残念(´;ω;`)

まぁそれでも、おかいもの~♫おかいもの~♫と、なんかのCMの歌を心の中で歌いながら
あの、宝箱の様な店内を物色していました。

なにせ、40人近くの子供たちの分ですから、


安い、軽い、かさばらない。

が、今回の「ミッション・おかいもの~♫」基本コンセプトでございます。
このコンセプトに沿った商品となりますと、必然的にカード類という事になるのですが、
クリスマス・カードじゃ、捻りなさすぎですから、結構困難なミッションなのでありました。

しかし、そこは我、母校の修道会が経営する、天下のドン・ボスコ、青少年の育成にその生涯を渡した聖ドン・ボスコのお店でございます。

「安い、軽い、かさばらない。」しかも、ありきたりのクリスマス・カードでもない商品がありましたぁ~

組立て式のペーパー・プレゼピオ.、しかも小さな赤ちゃんイエズスさまフィギア・・御像付き!

早速、組み立てみました・・・微妙。。。ではありますが(´・ω・`)。。。




でも、これで1つ168円は、安いでしょ(*´∀`*)

幼きイエズス様は、ちゃんと樹脂製で、しかも暗がりでボーっと光る優れモノなのです。

この、プレゼピオのチャームポイントは、主の降誕を知らせるあの星が、これでもかとばかりに
馬小屋の屋根に突き刺さっているところでしょう。
これなら、東方の博士達も決して間違える事なし!

そんな訳で、プレゼントも買えたし、店内をしばし散策です。

すると、テレーズ好きのホスチアの眼に1冊の本が飛び込んできました。

幼きイエズスの聖テレーズの詩愛で生きるマルタン師による解説・山口女子カルメル会訳

質素な装丁、エンデルレ書店の本を彷彿させる、ワープロチックな書体、発行部数は少ないぞと言わんばかりの謙遜な佇まい・・・こいつはデキル・・・(`・ω・´)

この、簡素な趣は、購買意欲を刺激するでした。


はい、買ってしまったわけで・・・(m´・ω・`)m

初版が1995年なので新刊と云う本ではありませんでしたが、中身は俺の知らないテレーズの詩が載っていました。

「愛に生きる」その事を、15の短い詩で綴っています。

聖テレーズが、見出した「愛」の本質がこの15の詩には凝縮されています。

各詩を、段落毎に、マルタン師(たぶん、テレーズ御親戚筋でしょう)が解説されているのも、理解の助けになります。

同じリジューのカルメル会で生活を共にした姉のひとりセリナが、こう言いています。


「妹の作品で、いつまでも『王』であるだろう。」

こんな俺でありますが、俺自身も「愛に生きよう」「愛であろう」と修道生活を送っています。
そんな俺にとって、テレーズは憧れであり、大切な存在です。

大変に人気のある聖女ですから、多くの方が御存知かとは思いますが、どうかより多くの方がテレーズを知ることで、主イエズス様の愛を感じて欲しいと思うのでした。

でも、紹介したのですが、まだちゃんと読んでないんだ・・・ゆっくり読む事にします。



6 件のコメント:

  1. 出典をど忘れしてしまったのですが
    聖テレーズの「母なる教会の心臓のなかで 私は愛にありましょう」
    「私の天職 それは愛です」
    「私の死後 薔薇の雨を降らせましょう」

    が心に響きっぱなしです。

    背景にしてくださっている街角のマリア様の永遠の
    女性性、安心しておやすみになっていらっしゃる
    幼子イエズス様の表情を拝見していると
    目から水が(´ノω;`)
    ありがとうございます。
    主のご降誕をお待ちしつつ。。

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  2. まりあぁ~(*´∀`*)

    リアンさん、教会の心臓のなかで 私は愛にありましょう」
    「私の天職 それは愛です」この2つの言葉は同じ祈り中に入っていたと思います。
    本当に、テレーズは、今も、薔薇の花びらの雨を世界中に降り注いで下さっていますよね。

    「私は、天職をみつけました。私の転職、それは愛です。」

    この言葉は、俺を変えた言葉です。そして、俺の天職も愛となる事と主に在って信じています。

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  3. ホスチアさん
    愛をリアルに感じなかった者
    でも、愛を行うことはできるのでしょうか。。
    変な質問ですみません。。

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  4. リアンさん、御質問がとてもデリケートな事なので、俺の答えが上手く伝わるか判りませんが・・・

    愛する者になる事と、愛された事が、またはその感覚が希薄だという事は、関係ないのかもそれません。
    経験がもし愛する者になる事に影響を与えるとしたら、愛された事より、寧ろ愛されなかった事の方が有益だと感じます。

    人は、親の愛、友の愛、恋人の愛・・・これらの表現を愛と喩えます。
    けれど、人は裏切る存在です、勿論100%ではありますんが、裏切られたと感じる事の方が多いでしょう。
    それは、親もまた例外ではないと実感しています。
    けれど、この裏切られたと感じるのは、自分が主体で自分を、もっと云えば自分だけを愛して欲しい、自分だけは裏切らないで欲しいと願う、自愛心です。
    しかし、愛する者は、全く自分を顧みる事はありません。
    何故なら、自分と同じ様に他者を愛しているからです。
    それは自分に敵意を持っている者に対しても何ら変わらず愛せるのです。
    そして、愛された事がない、傷ついた心があるからこそ、他者の心の痛みが、自分の心の痛みとして感じる事ができるのです。
    マザーテレサは「愛を行う事は、傷つく事。」と仰っています、それは、主イエズス様を見つめれば理解できるでしょう。
    イエズス様の愛仕方は、御父の愛仕方です。
    そこには、裏切られようが愛されようが、全く関係なく、愛する姿が在ります。

    愛される事を当然と思い、愛の中で暮らして居れば、愛の本当の意味を知ることは出来ないでしょう。
    そしてひと度、誰かに裏切られてしまうと、憎しみに囚われてしまうかもしれません。

    リアンさんが、愛されたと感じた事が、今まで無かったとしても、愛されたいと思う気持ちはあるのではないでしょうか、そう同じように感じている人は、とても多いと思います。
    そうして、愛されないまま、傷ついている人の気持ちが解る事ができるのが、リアンさんなのだと感じます。

    そうした方の傍らに寄り添って下さい。
    もしかしたら、その人に裏切られるかもしれない、けれど愛されたいと思う心を外してしまえば、心から愛せる様になれると思います。

    簡単な事ではないけれど、俺達はたとえ、人に愛されなくても、強烈な愛で、愛して下さっている方がいるんですから
    決して独りぼっちになんかなりません。

    そしてそんな時、この大気の中、今という時空の中に、無限とも思われる多くの祈りが、自分を支えてくれていることを感じるはずです。

    愛する事は、愛すると決心し、心臓が鼓動をひとつ打つ度に、愛すると決意する事です。

    リアンさんが、愛する者、愛そのものに変化される事を、こころいっぱい御祈りします。

    くじけそうになったら、主の十字架を見つめましょう。

    そこには「愛」だけが存在しています。

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  5. 聖テレーズ、大好きです^^
    「教会の中にあって、私は愛となりましょう!」
    は自叙伝の中にありますね^^ 「ma mission est l'amour!」久々に読みたくなりましたね^^
    愛を感じなくても愛を生きることについて、テレーズが自叙伝で書いてました^^
    「何もかも私の気に入らないことをするのが上手な姉妹が今した。しかし、その姉妹は、神さまにとって愛すべき人物ですので、私は自分の感情に負けたくありませんでした。ですから、その姉妹と接するとき、もっとも好きな姉妹に接する以上に、愛をこめて接しました。すると、その姉妹は言いました。スールテレーズ、私のどこがあなたをそんなに喜ばせるのでしょう。あなたは私のことを見るととてもうれしそうに微笑んでくれます。そこで、私は答えました。あなたのことが好きなのです。(霊において)と付け加えるとき声に出さなかったのはもちろんでございます」
    なんておちゃめな、テレーズさんでしょう^^

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  6. τ平和と善。

    シスター、修道生活で、きっと最も苦しく、また学べるのが共同生活なのでしょう。

    全く違う環境のの中で育った者同士が、同じ屋根の下に暮らすのですから、自分は自分と修室に篭ってしまえば、愛に背を向ける事になる、兄弟姉妹と積極的関わっていれば、衝突もあるし、嫌悪や憤りを覚える事もある。

    でも、それら全てが、主の御足跡を辿る勝てとなる気がします。

    テレーズが修練女たちに、諭す様に話した言葉を纏めた本がありますが、俺は枕元にそれを置いて、寝る前に繰り返し読んでいます。
    テレーズのようになかなか振舞えないけれど、本当に模範になります。

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