金曜日, 12月 02, 2011

回心








待降節と四旬節、この時期キリスト者は回心を教会から促される。

主の御降誕と御受難。

生と死。

この真逆の様な主イエズス様の出来事が、俺の中では同じだ。

貧しさの中、本当に粗末で劣悪な環境の中、主は御産まれになった。
身に着けた物は、母マリアが織ったであろう、一枚の布。
寝かされた場所は、飼葉桶・・・それは家畜達の食物が入れられる場所。
俺たちの王はこうして世に引き渡された。人類の罪の贖いのために。

それは恰も、イスカリオテのユダによって、引き渡され、人類の罪をその十字架に満載して
狭い産道を身を攀じりながら進む赤子の様に、狭い石畳の坂を登る、
その時を御産まれになったその瞬間に示されたかのようです。

そうして、主は最後には身に纏っていた、たった一枚の布をも奪い取られてしまう
腰に巻いていたその布も、母マリアが織ったのでしょう。

どんなに、神の御旨をと、強い決心とその人生において、マリア様は母である事を、普通のおかあさんである事を否定しながら生きれこられたことでしょう。
でも。御降誕の時に主を包んだ、あの布と腰から奪い取られたあの布には、母マリアの想いと母としての愛がどれ程込められていた事でしょう。

しかし、主はその母の愛をも、俺たちの為に捧げられた。

主イエズス・キリストは、その人性に於いて、徹底的に御父の御旨を全うする事にのみ生きた。
その神へ向う心を俺に日々、主は諭す。

それでも、世と云う計り知れない闇からの重力は、霊魂の飛翔を許さない。

もしこの重力が月ほどであったなら、月面に降り立った宇宙飛行士の様に、跳ね回れる事だろう。
けれど、それすら重い宇宙服を身に着けなければならない。

でもきっと、神様の御前に行こうと思えば、たとえ真空の空間であろうと、
なにひとつ、そう布一枚すら身に纏ってならないのかもしれない。

そうして、躰全ての穴という穴から体液が放出されようとも、それは大いなる喜びとなるでしょう。
世の重力から完全に解放され、御父と御子の愛の交わりに聖霊の光によって、愛に抱擁され加わるのです。


あぁ、それでもこの世に在る限り、様々な物を身に纏い、身を守るのでしょう。

回心を想う時、それは神様に振り返るその時、多くの醜いものを脱ぎ捨てなければと思うのです。



それは、主の掟となるために。



ギリシャ語で回心を、メタノイアと言います。

心を回して読んでみました。








メタノイア










ア   イ   ノ   タ   メ






6 件のコメント:

  1. おお!メタノイア、回心すると、「愛のため」
    何て素晴らしいんでしょう!!
    いつか公教要理の時間とかに、使わせていただきます^^
    愛のため・・・すてきだ~~!!

    返信削除
  2. シスター、お寒う御座います。

    これは、結構ポピュラーな話しみたいで、俺は知らなかったんですが、授業中にこのメタノイアの事が出て、シスター方が声を合わせて「あいのため」と言ったのでした。
    愛のためと言われると、なんとも俺のため?と聞こえて
    嬉しいのです(*´∀`*)

    返信削除
  3. 早速、コミノテで、シスターズに紹介しました^^
    でも、メタノイアの意味からの説明になり、
    逆さまの意味があまり伝わらず、
    やっとやっと伝わりました^^
    まぁ、おばあちゃまも多いですからね^^
    いいんです、ギリシャ語が分からなくても、
    神様と常に一緒のシスターズです^^
    若いシスターは、感動して、今年の待降節のテーマにする
    って、言ってました^^

    返信削除
  4. まりあぁ~(*´∀`*)

    「ぁ~ぁ・・・そうなのね・・・(@_@。。。?」的だったのでしょうか(笑)
    そう、いいんです。シスターズの皆様は、常にアイノタメなのでしょうから。

    返信削除
  5. マキシミリアナ・マリア・コルベ2011年12月7日 15:31

    このレンブラントの絵。父親の手にご注目。右手は、女性の手=母親。左手は男性の手=父親。なにを秘められた絵ですねって、シスターに言われました。

    返信削除
  6. まりあぁ~(*´∀`*)

    マキシミリアナさん、コメント有難うございます。

    そうですね、そう言われて見ると、左手の方が逞しい感じですよね。
    宗教絵画は、そうしてサインや仕掛けが描き込まれている物が結構存在しているようで、それを自分なりに探すのも楽しいかもしれませんね(*´∀`*)

    返信削除