金曜日, 8月 26, 2011

謎の修道服。








長崎に来て2週間目の或る日の事。
俺の修室は最上階の4階で、現在、俺ひとり。

御祈りから、えっちら、えっちらと階段を上がってくると、部屋の前に、何やら黒い物が・・・
見れば修道服でありました。
修道院ですから、修道服があっても何ら不思議はないのですが、俺の着衣は来月の予定で、しかも東京で行うので、此処に修道服があるのも妙なわけで・・・
では、此処の修道院のどなたかのかと思えば、此処の修道院の諸先輩方は、俺よりだいぶ背が低い方ばかりで、その方々の修道服ですと、かなり短いわけですが、部屋の前にあった修道服は大きく丈も長い・・・
ちょっと着てみたら、ぴったりの丈とサイズなので・・・ん???と、なったのであります。
修道院の兄弟達に聞いても、誰も知らず・・・ん???と、再びなったのであります。

着る訳にもいかず、仕方が無いので修室に飾っています。

誰が置いたか、誰が着ていたか謎の修道服を眺めながら、今日も1日が終ろうとしています。

修道服も聖別された特別な服です、この謎の修道服と共に、主に祈りを御捧げして、近頃は就寝しているのですが、変な夢ばかりを見る様になってしまい・・・死に関する夢ばかりで(´;ω;`)

この修道服のせいではないとは・・・思うにですが・・・



2 件のコメント:

  1. こんばんは!

    ある老司祭が、”スータンは喪服です。司祭は死体と同じです。自分に死んで、主のためだけに生きるのです。”と言っていました。すごいなあと感心しました。
    肉体的な死ではなく世への執着に死、主の愛に生きるための準備をされているのではと思います。

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  2. 匿名さま。
    平和と善τ
    コメントありがとうございます。

    司祭、修道者のみならず、俺達キリスト者は洗礼によって死に、主の十字架の購いにより、新たに生まれています。
    そして、これは己に死す。と言う事なのだと感じます。
    そも、神父様が仰る様に、主の為だけに生きる、主と一体ととなる為に生きる。それは、隣人の中におられる主に仕える事なのでしょう。
    互いに、相手を愛する主とし、仕え愛する事が出来れば、世の中の殆んどの事は解決するのではと思います。

    それでも、己に死して、隣人の為に生きる事は至難の業ですが、それを希望として歩みたいと、主に信頼し祈り歩んでいきましょう。

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