今日、東京の聖イグナチオ教会(カトリック麹町教会)で、うちの会の兄弟ひとりが司祭に、ひとりが助祭に、サレジオ会のひとりが助祭へと叙階の御恵みを戴いた。
三人の故郷はベトナム、10年近く前にカトリックの司祭を志して、言葉も解からないこの日本に来た。
日本語を習得しながら修道会で共同生活をし、大学、大学院と進み、そして今日の日を迎えた。
俺なんかには想像もつかない努力が在った事でしょう。
こうして、叙階式に参列出来た事、そしてなにより司祭、助祭になる三人に感謝の気持ちでいっぱいになった。
子供の頃、神父様はそれはそれは凄い人で、間違いなんて何一つもしなくて、染み一つない聖なる存在なんだと思っていた・・・
今の生活は司祭と司祭を目指す兄弟達と暮らしている、子供の頃に思っていた神父様像より大分人間臭く親しみのある存在へと変化したけれど、先日の長崎での叙階式、そして今日の叙階式に与りながら感じた事がある。
司祭になる人間は決して特別ではない、失敗もし、罪も犯す、腹もたてるし、嫉妬もする、放射能が恐くて逃げたいと思うかもしれない・・・
そんな状態でも、叙階され司祭となる。
でも、そんな人が神父様だなんて、とは思わないで下さい。
司祭には、成すべき責任ある仕事が存在する、主イエズス様は、私に従いたい者は自分の十字架を担ってついて来なさい、と仰せになられた。
叙階式が進むにつれ、ならば司祭の十字架とは何なんだろうと思い巡らしていた、それは成すべき責任と違う十字架があるような・・・、叙階された兄弟に、そして五〇人近く参列された司祭団を見ながら感じた。
参列された全ての司祭方、そして叙階された新司祭、きっと誰に聞いても自分が主の求める完璧な人間であるなどと思っている方はおられないでしょう。
それでも、司祭なのです。
不完全な人間であっても、主イエズス様は司祭を信頼し、御自分の肢体として御使いになられる。
全き信頼を主イエズス様は司祭に寄せて下さる。
不動の愛を司祭に寄せる。
司祭が他の人間と違うところが有るとすれば、この絶対的な信頼、揺るぎない愛に持てる全ての能力、全生涯、死までも捧げ応える事が出来る、壮絶な愛がある事でしょう。
司祭の十字架は、主の愛そのものかもしれない・・・。
助祭の着けるダルマチカ
司祭が着るカズラと教皇様の証明書