金曜日, 4月 29, 2011

釜石、陸前高田そして・・・祈り。



言葉を失う風景だった。

言葉が意味を成さない日常が存在する。


釜石



釜石


釜石


釜石

ボランティア・ベース付近の風景は、破壊されて
微かな日常の痕跡が残っているだけだった。


陸前高田

そこは、本当になにも無い
人々の日々が粉々に砕かれ、押し流された巨大な爪痕に
涙が流れるだけだった。


陸前高田


陸前高田

満開の桜の下で昼食です。
高台に位置する小学校は支援物資の倉庫になっていました。
この小学校の児童は全員無事。
明るく元気な声が俺達をどれ程癒してくれたことか・・・
感謝です。


釜石

釜石港にある、新日鉄釜石工場
その敷地には津波で根元から折れてしまった桜の樹がありました。
根元から折られ、海水に全て浸かりながらも
その枝には満開の花が見事に咲き誇っていました。

自然は恐ろしく、そして完璧に美しいのです。





水曜日, 4月 20, 2011

砂粒ほどの希望。






砂粒ひとつにも満たない

けれど小さな希望になれたら





聖週間、岩手に行ってきます。


悲しみの中でもアレルヤと歌うために

















日曜日, 4月 17, 2011

God is alive








空気

陽の光

音

風

香り

重力

祈り

神

見えないものが存在しなければ

この肉体も
この霊魂も
この愛も

この俺は

存在できない

主よ

主よ

我が主イエズスキリストは
賛美せられさせ給え。




金曜日, 4月 01, 2011

神を学び行くのです。






今日は入学式だったのでした。

明日から東京は瀬田に在る、聖アントニオ神学院で、お勉強をすることになり
今日は入学式でした。

入学式ですから、どんな方達と机を並べるのだろうかと、不安と期待の中、向ったのですが、
知り合いと何度か御見かけした方が多く、リラックスした入学式となりました。

この歳で、また学校に行くなどとは思ってもいなかたのですが、
きっと誰でも卒業して10年以上経つ頃に、
「あぁ、もっと勉強しておけば良かったなぁ~」とか「今なら、真剣に講義を聴くんだけどなぁ」
などと思ったりするのではないかと思います。
でも、そう感じる時には、勉強や研究を行える時間も生活の余裕も無かったりする訳で
少し後悔をするだけになってしまうのかもしれません。

ですから、今こうして学べると云う、とても贅沢で貴重な時を神様と修道会が御与え下さった事に本当に感謝です。
感謝には結果を出さなければならないのですが、この恵まれた環境に応えなければと感じています。

とは言え、記憶力も集中力も学生の頃と比較すれば、落ちているわけで、不安もあるのですが・・・

今日は、ルーズリーフのノートを買ったり、ペンをかったり、2月に司祭叙階された兄弟のお下がりのバインダーを、これまた、お下がりのバッグに入れてと、なんか新入生を楽しんでいます。

お下がりでない、入学グッズは、メガネ。(写真の眼鏡)

これを掛けると、お勉強が出来そうに見えたりして(*^_^*)


何よりも、誰よりも愛する方を学びに行きます。

神を学びに行くのです。



水曜日, 3月 30, 2011

神に仕える事。そして聖テレーズ。





修道院の図書室には幼きイエズスの聖テレジア関連の書籍が豊富にしかも今や絶版になっている書籍がある。
此処に来る前にネットや古本屋で探したがどうしても見つからなかった本が、テレーズ物だけでなく蔵書されているのは、本当に感謝なのです、コンソラータの本を見つけた時は感激でした。

そんな宝の山のなかに、繰り返し読んでいる一冊の本がある、
「幼きイエズスの聖テレジアの教訓と思い出」と題された本である。
現在も版を重ねて出版されているのかは不明ですが、修道者テレジアを知るには良い書物でしょう。



修道会に入会する者は誰一人として、これを就職と考えて修道院の門を叩く者は存在しないのでしょう。
社会経験のある者なら尚更、どうしよもない心の衝動と神の呼び掛けに全くの自由意思で、その愛に呼応するのです。
でも、修道院も人の集まりです、しかも同じ屋根の下で寝起きし食事を共にし、共に祈ります。
日々の暮らしの中で悪魔の囁きか、そんな兄弟に憤り感じたり、些細な言葉で、傷つけたり傷ついたりと、外の社会と何ら変わらない人間関係が存在します。
そして修道会には社会的に責任のある仕事も在ったりするわけで、そんな俗世的な環境と人間臭い暮らしの中で、つい仕事を優先する事で自分を正当化するかもしれない、或る時から兄弟達との人間関係を窮屈と感じ、自分の殻に閉じ籠もってしまうかもしれない。

そこには、神に仕える喜びなど存在しない、神を感じない己がポツンと膝を抱えて暗がりで身を固めている。



この場所に居る事は、喜びです。大いなる喜びです。
神に仕えに来た者にとって、此処は全てが喜びです。

テレーズの教訓と題されたこの本を読む時、自愛心に支配されてしまいそうな自分をリセットできるのです。

勇気と喜びを聖女はすれ違ったその瞬間に、その御手からさり気無く落とすのです。

そうして、「私が死んだら、薔薇の花びらの雨を降らせましょう。」

そう言った聖女の花びらを、今日も一枚拾いあげるのでした。






火曜日, 3月 29, 2011

かぜぐすり。







なんだかすっかり風邪をひいてしまった。

寒気と頭痛、そして困るのがこの喉の痛み
聖務を歌うのも唱えるのも超重低音になってしまう・・・(;・ω・)

とにかく薬を飲まなきゃと、薬箱をゴソゴソ。
今、修道院では俺を含めた数名が風邪っぴきさんになっており、もはや薬は無いかなぁと思いきや
たっぷりと在庫有りで、なんとも心強い事でしょう。

市販の風邪薬はひき始めでなければまず効かないのですが、薬があるだけで安心するものです。
風邪薬の薬瓶を手に取り眺めながら、震災で避難されてる方達も寒さの中、風邪をひいて熱を出して居られる方も沢山いらっしゃるのだろうと考えてしまう。
風邪だけではなく、ストレスから胃痛とか、普段健康だった方も薬が必要になっている事でしょう。
足りない物だらけで・・・
何ひとつ安心する要素がない日々を過ごされいる。

風邪をひいたら、こうして直ぐに薬を飲める事に、安心が俺には存在してる事を。申し訳なく感じてしまう
それに練馬は停電しないし・・・
それは、暖かい部屋で過ごせると言う事でもあるのです。

3・11以降何もしない自分が、思いはいっぱいあるのに、しない自分が風邪をひいて寝込んでしまっている。

小さな薬瓶を見つめながら、そう思っています。



土曜日, 3月 26, 2011

叙階と言う愛。






今日、東京の聖イグナチオ教会(カトリック麹町教会)で、うちの会の兄弟ひとりが司祭に、ひとりが助祭に、サレジオ会のひとりが助祭へと叙階の御恵みを戴いた。

三人の故郷はベトナム、10年近く前にカトリックの司祭を志して、言葉も解からないこの日本に来た。

日本語を習得しながら修道会で共同生活をし、大学、大学院と進み、そして今日の日を迎えた。
俺なんかには想像もつかない努力が在った事でしょう。
こうして、叙階式に参列出来た事、そしてなにより司祭、助祭になる三人に感謝の気持ちでいっぱいになった。

子供の頃、神父様はそれはそれは凄い人で、間違いなんて何一つもしなくて、染み一つない聖なる存在なんだと思っていた・・・
今の生活は司祭と司祭を目指す兄弟達と暮らしている、子供の頃に思っていた神父様像より大分人間臭く親しみのある存在へと変化したけれど、先日の長崎での叙階式、そして今日の叙階式に与りながら感じた事がある。

司祭になる人間は決して特別ではない、失敗もし、罪も犯す、腹もたてるし、嫉妬もする、放射能が恐くて逃げたいと思うかもしれない・・・
そんな状態でも、叙階され司祭となる。
でも、そんな人が神父様だなんて、とは思わないで下さい。
司祭には、成すべき責任ある仕事が存在する、主イエズス様は、私に従いたい者は自分の十字架を担ってついて来なさい、と仰せになられた。

叙階式が進むにつれ、ならば司祭の十字架とは何なんだろうと思い巡らしていた、それは成すべき責任と違う十字架があるような・・・、叙階された兄弟に、そして五〇人近く参列された司祭団を見ながら感じた。

参列された全ての司祭方、そして叙階された新司祭、きっと誰に聞いても自分が主の求める完璧な人間であるなどと思っている方はおられないでしょう。
それでも、司祭なのです。
不完全な人間であっても、主イエズス様は司祭を信頼し、御自分の肢体として御使いになられる。
全き信頼を主イエズス様は司祭に寄せて下さる。
不動の愛を司祭に寄せる。

司祭が他の人間と違うところが有るとすれば、この絶対的な信頼、揺るぎない愛に持てる全ての能力、全生涯、死までも捧げ応える事が出来る、壮絶な愛がある事でしょう。

司祭の十字架は、主の愛そのものかもしれない・・・。



助祭の着けるダルマチカ



司祭が着るカズラと教皇様の証明書