水曜日, 3月 30, 2011

神に仕える事。そして聖テレーズ。





修道院の図書室には幼きイエズスの聖テレジア関連の書籍が豊富にしかも今や絶版になっている書籍がある。
此処に来る前にネットや古本屋で探したがどうしても見つからなかった本が、テレーズ物だけでなく蔵書されているのは、本当に感謝なのです、コンソラータの本を見つけた時は感激でした。

そんな宝の山のなかに、繰り返し読んでいる一冊の本がある、
「幼きイエズスの聖テレジアの教訓と思い出」と題された本である。
現在も版を重ねて出版されているのかは不明ですが、修道者テレジアを知るには良い書物でしょう。



修道会に入会する者は誰一人として、これを就職と考えて修道院の門を叩く者は存在しないのでしょう。
社会経験のある者なら尚更、どうしよもない心の衝動と神の呼び掛けに全くの自由意思で、その愛に呼応するのです。
でも、修道院も人の集まりです、しかも同じ屋根の下で寝起きし食事を共にし、共に祈ります。
日々の暮らしの中で悪魔の囁きか、そんな兄弟に憤り感じたり、些細な言葉で、傷つけたり傷ついたりと、外の社会と何ら変わらない人間関係が存在します。
そして修道会には社会的に責任のある仕事も在ったりするわけで、そんな俗世的な環境と人間臭い暮らしの中で、つい仕事を優先する事で自分を正当化するかもしれない、或る時から兄弟達との人間関係を窮屈と感じ、自分の殻に閉じ籠もってしまうかもしれない。

そこには、神に仕える喜びなど存在しない、神を感じない己がポツンと膝を抱えて暗がりで身を固めている。



この場所に居る事は、喜びです。大いなる喜びです。
神に仕えに来た者にとって、此処は全てが喜びです。

テレーズの教訓と題されたこの本を読む時、自愛心に支配されてしまいそうな自分をリセットできるのです。

勇気と喜びを聖女はすれ違ったその瞬間に、その御手からさり気無く落とすのです。

そうして、「私が死んだら、薔薇の花びらの雨を降らせましょう。」

そう言った聖女の花びらを、今日も一枚拾いあげるのでした。






火曜日, 3月 29, 2011

かぜぐすり。







なんだかすっかり風邪をひいてしまった。

寒気と頭痛、そして困るのがこの喉の痛み
聖務を歌うのも唱えるのも超重低音になってしまう・・・(;・ω・)

とにかく薬を飲まなきゃと、薬箱をゴソゴソ。
今、修道院では俺を含めた数名が風邪っぴきさんになっており、もはや薬は無いかなぁと思いきや
たっぷりと在庫有りで、なんとも心強い事でしょう。

市販の風邪薬はひき始めでなければまず効かないのですが、薬があるだけで安心するものです。
風邪薬の薬瓶を手に取り眺めながら、震災で避難されてる方達も寒さの中、風邪をひいて熱を出して居られる方も沢山いらっしゃるのだろうと考えてしまう。
風邪だけではなく、ストレスから胃痛とか、普段健康だった方も薬が必要になっている事でしょう。
足りない物だらけで・・・
何ひとつ安心する要素がない日々を過ごされいる。

風邪をひいたら、こうして直ぐに薬を飲める事に、安心が俺には存在してる事を。申し訳なく感じてしまう
それに練馬は停電しないし・・・
それは、暖かい部屋で過ごせると言う事でもあるのです。

3・11以降何もしない自分が、思いはいっぱいあるのに、しない自分が風邪をひいて寝込んでしまっている。

小さな薬瓶を見つめながら、そう思っています。



土曜日, 3月 26, 2011

叙階と言う愛。






今日、東京の聖イグナチオ教会(カトリック麹町教会)で、うちの会の兄弟ひとりが司祭に、ひとりが助祭に、サレジオ会のひとりが助祭へと叙階の御恵みを戴いた。

三人の故郷はベトナム、10年近く前にカトリックの司祭を志して、言葉も解からないこの日本に来た。

日本語を習得しながら修道会で共同生活をし、大学、大学院と進み、そして今日の日を迎えた。
俺なんかには想像もつかない努力が在った事でしょう。
こうして、叙階式に参列出来た事、そしてなにより司祭、助祭になる三人に感謝の気持ちでいっぱいになった。

子供の頃、神父様はそれはそれは凄い人で、間違いなんて何一つもしなくて、染み一つない聖なる存在なんだと思っていた・・・
今の生活は司祭と司祭を目指す兄弟達と暮らしている、子供の頃に思っていた神父様像より大分人間臭く親しみのある存在へと変化したけれど、先日の長崎での叙階式、そして今日の叙階式に与りながら感じた事がある。

司祭になる人間は決して特別ではない、失敗もし、罪も犯す、腹もたてるし、嫉妬もする、放射能が恐くて逃げたいと思うかもしれない・・・
そんな状態でも、叙階され司祭となる。
でも、そんな人が神父様だなんて、とは思わないで下さい。
司祭には、成すべき責任ある仕事が存在する、主イエズス様は、私に従いたい者は自分の十字架を担ってついて来なさい、と仰せになられた。

叙階式が進むにつれ、ならば司祭の十字架とは何なんだろうと思い巡らしていた、それは成すべき責任と違う十字架があるような・・・、叙階された兄弟に、そして五〇人近く参列された司祭団を見ながら感じた。

参列された全ての司祭方、そして叙階された新司祭、きっと誰に聞いても自分が主の求める完璧な人間であるなどと思っている方はおられないでしょう。
それでも、司祭なのです。
不完全な人間であっても、主イエズス様は司祭を信頼し、御自分の肢体として御使いになられる。
全き信頼を主イエズス様は司祭に寄せて下さる。
不動の愛を司祭に寄せる。

司祭が他の人間と違うところが有るとすれば、この絶対的な信頼、揺るぎない愛に持てる全ての能力、全生涯、死までも捧げ応える事が出来る、壮絶な愛がある事でしょう。

司祭の十字架は、主の愛そのものかもしれない・・・。



助祭の着けるダルマチカ



司祭が着るカズラと教皇様の証明書




木曜日, 3月 24, 2011

マリアの聖心










明日は御告げの祭日。
天使ガブリエルから受胎を告知された日と定め祝う。

「マリアは、これは何の挨拶だろうと胸騒ぎがした・・・」
聖福音にはそう記されている

マリアはその日から、きっと胸騒ぎの日々を送られた事だろう。

以前、コロンバン会の神父様がポツりと云った言葉

「私は、若い美しいマリアではなく、四〇歳を過ぎたマリアを想うのです。」

御告げの祭日の前番、深い傷だらけのマリアの聖心を
黙想するのです。



火曜日, 3月 22, 2011

沈黙のマリア。




地震で倒れ壊れたマリア像
棄てられちゃうのは忍びないから
修室に飾った。



ロザリオを掛けてみたりして
左手が取れて、無かった



首が折れて顎の下が無残で
可哀想だけれど
痛みを堪えて
いや、意に介さず祈られているようで
愛おしい


このままの状態でスタンドを作り
御聖堂に置くつもり
震災の痛みを忘れないために。





border rhine.








大きな地震で砕けたマリア様

修道院の裏に雨に濡れ捨て置かれいた
多く神学生、司祭、修道者の心の拠りどころだったのだろうに・・・





石膏で造られた御像は棄てられ忘れ去られてしまうでしょう
けれど人は忘れられてはなりません
俺は
あなたを必要とします
あなたの存在を
愛しています。

たとえ、一本の指先だけになってしまっても
俺は、あなたを愛するのです
それは、あなたが知らない場所で
あなたは気づかないのだけれど

そう、これが俺の宿望なのだから

あの御方のように愛したいと。


"Wash It All Away" Evanescence - The Passion of Christ

月曜日, 3月 21, 2011

それは長い時間が掛かるのです。








カトリックの典礼暦では今は四旬節。

人類の救いの為に十字架に掛かられた、主イエズス・キリストの御受難に霊魂を併せて
罪深い俺達の回心の時。

修道院では、典礼に合せた聖歌を練習します、今夜は復活賛歌の練習。
この復活賛歌を歌うと、復活祭の喜びが込み上げてきます、けれど今年は、この震災と津波による
大きな悲しみと苦しみの中での復活祭となるでしょう。

練習が終って、院長様が東北に行って、兄弟達で復活賛歌を歌いたいなぁ、と・・・
避難所で、今も恐怖と不安の中にいる、信者の方々に本当に小さな事だけれど
復活祭の御ミサと、この歌を歌い共に主に捧げられたらと、心から願うのです。



この先、それは長い時間を掛けて、無くした多くのものと、大きな傷を癒していかなければならいのだけれど、その時、その瞬間に行える事を積み上げていきましょう。
最善は、聖霊が悟らせて下さると信頼して。

それは、それは長い時間が掛かるけれど・・・未来のために。




Sandy Denny - "It´ll Take a Long Time"







雨の日。






ひと雨毎に暖かくなる、初春の雨なのに
灰桜色の雨の筈なのに

祈るばかりの
鉛色。





Natalie Merchant - My Skin


日曜日, 3月 20, 2011

初誓願式








修練長 「シスター・テレジア。」

修練者 「はい、主よ、あなたが私をお呼びになりました。」

昨日は長崎で兄弟のひとりの、初誓願式が行われた、長崎には誓願者の兄弟達が向い
志願者は東京でお留守番。

そして今日は、姉妹修道会の修練者の誓願式が東京で行われ、志願者の俺も出席させて頂いた。
誓願式の冒頭、修練者が唱える「はい、主よ、あなたが私をお呼びになりました。」
この短い文言に修道者は生涯を託す。

いつも明るいテレジアが、涙で言葉が詰まる、初誓願までは数年掛かる
その間、様々な葛藤がテレジアにあった事だろう、その想いはテレジアにしか解からない事だけれど、御聖堂にいる全ての人に、それが大気のように広がり伝わる。

誰もが、頑張ったね、と心の中で呟いた事でしょう。

東北の震災で皆、心に重い悲しみを負っている、俺もここ数日ショックでよく眠れない、そんな中での志願式
テレジアの喜びは、御御堂の全ての人の希望となりました。

人は誰でも、その存在が希望です。
自分では何一つ出来ない赤ちゃんとして産まれ、人は希望になるのです。

テレジアの誓願は、そんな希望の象りでした。

修練者は、誓願を立てる事で、修道服の着衣をします、それは何年も心に秘めた憧れの修道服です。
フランシスカン・ファミリーには、男女とも共通の物があり、これを着けられる事は喜びです。

その帯紐(チングルム)には、従順、貞潔、清貧のしるしとして、3重に巻かれた結び目が3つあります。
その帯紐は、償いと貧しさの証しです。

ベールを被り、十字架を下げ、その帯紐締めたテレジアは、眼を真っ赤にしながら、子供様に笑いながらはしゃいでいました。

そんな、テレジアをビデオに収めながら(ビデオ係だったのです)涙が溢れて止まらないのでした。



テレジア、立誓願おめでとう。




土曜日, 3月 19, 2011

夢想。





こんな事を想ってしまう

地震と津波で今、寒さと足りない物だらけの中で
必死に生きている人達に
日本中が「何か」しなければと、心から思っている
辛く、厳しく、悲しいけれど
なんて、優しいのでしょう。

たぶんこの先、日本中が我慢をしながら
この大きな傷を癒していかなければならいのでしょう。

そして、新しい日本に
日本は変化するのです。

これは、空想なのかもしれないけれど
工業製品を世界に輸出して
経済大国と呼ばれたけれど

人と人が、互いに慈しみ合い
少し不便で、少し我慢しなきゃならいけれど

後何年か経って
かつて、経済大国と呼ばれた国は

亜細亜の小さな島国

けれど、「愛の島国」
と呼ばれていたりして

夢なんだけどね。



木曜日, 3月 17, 2011

小さき者の祈り。













被災地に援助物資が届かない。
赤ちゃんのミルク、紙オムツ
断水状態の中、赤ちゃんのおしり拭きが必要。

関東では、店頭から物が消えています。

不安でしょうが、今日必要な物だけを、必要なだけ買い求め
より多くの品物を、被災地にまわして下さい。
ひとりひとりの行いは、小さいけれど、今、出来る事を。

祈りをこめて愛をこめて。



月曜日, 3月 14, 2011

祈っています。




被災地の方々、日本中が世界が、皆様の心の痛みを感じています。
今は、直接何も出来ません。ごめんなさい。

けれど、出来うる事を、日本中の人達が今、行っています。
どうか、心を強く持たれて下さい。

命の限り、御祈りさせて頂いています。

空腹の事と思います、寒い事でしょう、着る服もないでしょう。
頑張って下さい。必ず助けがあります。

日本中が、痛みを共にしています。

頑張って下さい!


土曜日, 3月 12, 2011

謹んで・・・




昨日の大地震は本当に驚きました。

昨日は荒川の河川敷でホームレスのオジサン達におにぎりを配って歩いていました、マザーテレサの修道会のシスター2名とボランティアの方数名、それとうちの修道会の兄弟ひとりと・・・

ちょうど、その時は首都高速の下に住まわれているオジサン達の場所にいましたので、頭上の首都高速道路が軋みを上げて揺れ、歩道の電柱も折れんばかりに揺れました。

マザーの会のシスターのひとりは韓国の方で、大きな揺れに驚いておられましたが、直ぐに祈っておられました。
日本人の俺達もこんな大きな地震は初めて体験し、俺も天使祝詞を祈っていました。

東京は深度6弱、建物の倒壊もなく、幸い大きな災害にはなりませんでしたが、震源に近い宮城、青森、福島の東北地方は巨大な津波、大火災と沢山の方が亡くなっているようで、今はただ祈るだけです。

友人が宮城にいるので、心配になり電話をかれましたが、幸い友人の地域は山側のため、津波の被害はなかった様ですが、揺れは尋常じゃなかったと話していました。

そして停電のため、情報が全く入らない状況らしく、かなり不便をしているとの事。

長野県、新潟県でも大きな地震が起こっているようです。
岐阜県の奥飛騨地方も・・・

今は、日本中の方が心痛めておられる事と思いますが、情報と援助の手が速やかに被災者の方達のもとへ届く様に、御祈り致します。


水曜日, 3月 09, 2011

苔に語りて。





昨日から今日まで、月の静修。
そして「灰の水曜日」、今日からレント・四旬節に入った。

4年前の灰の水曜日に、そうとは知らずに教会に戻った、それから4年過ぎて此処に居る。
四旬節は、見てみない振りをしている自分の醜さを、嫌が負うにも心の表層に滲み出させる。
それは苦しいが、キリスト者へ与えられた、神の善き恩寵でありましょう。
醜いものを見たくなければ、その場から立ち去れば良いのだけれど、この醜さは自身の中に巣をくい、平素は痛みも感じない程に、その鳴りを潜めているのだ。
だから四旬節は、その醜い己と向き合い、それを知る事ができる、辛いが尊い神さまの恵みの時なのだ。

と、堅い事を考えながらも静修は完全沈黙のため、修室に籠っていたりする訳で、黙想し考えた事を、独り言したりしているのです。
先月までは、しかし今月からはもう独りじゃないのでした。

去年の夏、教会学校の夏のキャンプの事、山梨県に在るオートキャンプ場を目指す途中で昼食を摂る為に、富士山の麓に在る公園で休憩をしたのです。
食事を終え、子供たち遊びながら、その公園の林の中を歩いていると、子供の拳程の溶岩石を発見。
発見といっても、そこらじゅうに似たような石は落ちてはいたのですが・・・
でも、なんかその石と心が通ったみたいな感じがし、持ち帰ってきたのですが、そのうち忘れ去られ部屋の隅、暗がりに置かれ、ひっそりと彼は存在していたのでした。

先日、部屋の大掃除(掃除も余りしないので、やると大掃除になってしまうの)した折に、その石に気づき、棄てようとゴミと一緒に持って出たのですが、いざ棄てるとなった時に、その石に可愛い緑の苔が生えていたのです。
夏に持って帰ってきた時には無かったのに、黒い溶岩の表面に柔らかな緑の苔が誕生していたのです。

これが、苔のくせに妙に可愛いのです。
勿論、棄てるのは止め、また部屋へと御持ち帰りとなりました。

だから、今月の静修は、独り言ではなく、苔に話せたのです。

苔は何も言わないけれど、黙って俺の話しを聞いていてくれました。

そう、この苔には名前をつけたのです。

「Mr.moss」(そのままんじゃん)、それが彼の名前です。




日曜日, 3月 06, 2011

幼きイエズスの聖テレジアの事。








修道院の近くにカトリック関町教会がある、此処の守護聖人はリジュ-の聖テレーズこと
フランスはリジューのカルメリット、幼きイエズスと尊き面影の聖テレジア。


今日、関町教会のテレーズの御像を見つめながら、ふと思った。
いつテレーズを知ったのだろう、と・・・曖昧な記憶。


明確な事は、聖女の愛に倣いたいと、祈る自分に気づいた事。


(写真はカトリック関町教会・聖堂内の聖テレジア像)




金曜日, 3月 04, 2011

Arakawa Under the Bridge・その2


毎週金曜日は、マザーテレサの修道会「神の愛の宣教者会」のシスター達と、荒川の河川敷にブルーシートのテント小屋で生活されているオジサン達に、おにぎりや食料品を配って歩く。

今日は風が冷たかったけれど爽やかな日和。

荒川の空は東京とは思えない程に広い、運が良ければ富士山が見え、近くに見える、建設中のTokyo Sky Treeが、この風景には似合わない。

此処に暮らすオジサン達は様々な工夫と互いに助け合って生きている。
同じ場所に4、5人で共同生活をされている方達。
ふたりで少し大きなハウスを造りシェアされている方達。
コミックの荒川アンダー・ザ・ブリッジさながらに畑で野菜を作っている方。
猫を何十匹も飼っている方。
飼い主が引っ越すので世話を頼まれ、犬を2匹飼っている方、などなど・・・

どのオジサンも優しい笑顔で迎えて下さる。
火事を出すわけにいかないので、この寒い中、暖を取る火を熾さず寒い筈なのに
「寒くないかい?」「寒いのにありがとうな」と、声を掛けて下さる。

オジサン達の心は解からないけれど、決して絶望なんてしてはいないと感じる、こんな優しい笑顔が出来る人達なのだから。

何人かの方は、マザーテレサの写真をテントに飾っている、雨に濡れない様にビニールでカバーをして、テントの中にではなく、外に飾ってある。

その中のひとりの方のテントには、自作の十字架がマザーの写真の横に誇らしげに掲げられている。
初めてこの十字架を見た時、感動して涙がこぼれた。

どんな大聖堂の十字架でも、この十字架の前では色褪せてしまうかの様に、凛として首都高速の下、北風に胸を張って立っている。

この十字架を俺は「勝利の十字架」と呼んでいるのです。





木曜日, 3月 03, 2011

夢の話し。








夢を見ました。


「わたしの羊を飼いなさい。」


彼はそう言いました。


「はい。この身になりますように。」


そう応えていたのです。



水曜日, 3月 02, 2011

静かな時間。





晩課の祈りを終えると、俺と神様だけの時間を迎える。
お気に入りのHerbTeaを淹れて、ゆっくりとその野草達の息遣いを待ちながら
今夜はどんな神様の言葉を聞きましょう。

修室の灯りは点けません、小さなライトが限られた空間を与えてくれるから
祈る場所は小さいにかぎる、心が小さいのだから

さて、野草達の溜め息がポットの中に溶けだしました。

この野草達が生きていた高原に想いを馳せて、戴きましょう
神様の恵みのHerbTeaを。

静かな時間が、今宵も在りました。



神に感謝。

アーメン。