月曜日, 2月 06, 2012

小さな黙想












毎月、月初めの週末、修道院では「静修」の時がある。

何処の修道会でも設けられている「時」でしょう。

土曜の昼過ぎから翌日の昼食までの完全なる沈黙の時です。
観想修道会では日々、沈黙なでしょうが、事業体を持っている修道会や活動修道会では、完全沈黙は事実上不可能ですから、こうした「時」を持つのだたと感じます。

この静修では、小さな黙想会を共同体で行います。
外部の修道会から指導司祭を御招きする事もあります

実はこの静修、此処に来た当初はどうしてよいのか解らず困惑していました。
まず、沈黙が困りました・・・

食事の時にも、黙って黙々と食べるのが奇妙に感じて、笑いそうなってしまうし
「おはよう」も「いただきます」も言わないのに抵抗もありました。

しかし、それは俗世の常識に囚われている事でもあったのです。

「常識」とは正しく常識で、それ自体に疑問を持つ事などこの生活に入る前は余り無かったのです。
俗世の常識は、其々の現場(職場)で異なるので、新しい環境ではそこの「常識」が存在したりするのですが、「おはよう」や「いただきます」を言わない常識は皆無でした。
そして「完全なる沈黙」などこれまた皆無でしたから、戸惑いましたし何か座りの悪い椅子に座っれいる様な感覚でした。

けれど、或時から不思議な事に気づくのです。

人は言葉を何の為に使っているのでしょう。
大きく言えばコミュニケーションの手段として言葉を使います。それは情報の伝達でもあります。
自分の思いや考えを相手に伝える、また相手の考えや思いを知る。
その為の言葉です。

けれど、その相互の情報は何処まで正確なものなのかなと、考えしまう時があります。

本心はこうなんだけど、其れを言ってしまうと相手と上手くいかなくなる事もあって
正確に言葉にしない場合も多々あるかなって思います。

こうして言葉は極端に言ってしまえば、仮初の人間関係を恙無く遂行する潤滑油となってしまっているのかもしれないと感じます。

しかし沈黙には、この言葉の潤滑油は存在しません。

それでも共同生活を営んでいるのですから沈黙と云えども「無視」をする訳にはいきません。

其処に居る兄弟が今、何を望んでいるのか、何を感じているのを「感じ」なければならないのです。

僅かな大気の変化や、兄弟の霊から香る想いを霊のよって捉えなければ「それ」を知る事が出来ないのです。
この、霊から香る想いを、俺は自分勝手に名前を付けています。

「霊香・れいか」・・・この霊香ちゃんが雄弁な言葉なんかよりも兄弟の心の内を語ってくれるんです。


常識的に「おはよう」と言い、鸚鵡返しの様に「あ・・おはよう」と、その朝の一瞬を流してしまえば、それでその「おはようは」言葉の往復で終わってしまうのです。
けれど、沈黙の時の朝、言葉を交わさない中で、兄弟の霊が香ります。

何か悩んでるのかな・・・体調が良くないのかな・・・何か黙想中みたいだな・・・

兄弟達の霊香ちゃん達が、教えてくれのです。

静修の時は、普段聞こえない兄弟達の声が修道院の其処かしこに浮遊しているのです。















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