日曜日, 11月 27, 2011

洗礼






キリスト者であること。

神の恩寵により

授かった

洗礼。


原罪からの開放。



ここ数日、洗礼を思う。

洗礼ってなんだろ






洗礼を受けている者と、そうではない者

神は、分け隔てを為さる筈がない


けれど、洗礼は救いの証し。



祈りの中で
理解しました。




洗礼を受けた者は

何時、どんな時も感じるのです。



神に、愛されていると。


誰よりも、

主に愛されている。




そうなんです。


俺は、主イエズス・キリストと相思相愛なのです。




それを、はっきりと霊によって解る

それが、洗礼の恩寵。



あ~、すっきりした(*´∀`*)


2 件のコメント:

  1. 自分は、より困難な事が多くなってしまい信仰し続けられるかどうかです…

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  2. リアンさん。

    何故、信仰を続けられるるか難しい状況なのかは、判りませんが、それが外的要因、御家族との問題なのか、リアンさん自身と神様の問題なのか、その両方なのか、でももし神様を感じなくなってしまっておられるなら、それは本当に辛いです。

    神様に触れる事も、その腕で母のように、父のように、恋人のように抱きしめてくれはしません。
    寂しくて、独りが堪らなく嫌な時、そんな自分が大嫌いな時、そんな時でも、神様はこの身体で感じるように抱きしめてはくれません。
    いっそ、神様を嫌いになれたらと思う。

    リアンさん、祈る事も、もし出来ないのでしたら、無理をしないで下さい。祈れない自分を責めたりしないで下さい。

    俺が、祈ります。

    霊はひとつ。だから祈り支え合う他に俺たちには為す術が無い。

    リアンさんに、平安が戻りますように。

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