金曜日, 6月 03, 2011

主の示された心臓。









6月は「イエズスの聖心」の月であります。

御像や御絵では、主が自らの心臓を示されています。

毎晩、ロザリオの後に、この主の姿をリアルに黙想し祈ります、このリアルってのが俺には大切な事。
痛みは身体の痛みであろうと心の痛みであろうと、他人には伝わらない理解して貰えない事でしょう。
同じ痛みを経験すれば僅かですが、その痛みを他人の痛みを理解できるかもしれません、けれどやはり本人でなければ、それを心から知る事は無理なのではと感じます。

けれど、主は違います。
どんな人のどんな痛みをも自分の痛みとして感じ、その痛みを引き受けようとされます。

イエズスの聖心は、その人々の痛みを全て内包し自らの傷、痛みとされた傷だらけで血まみれの心臓を俺に示します。

愛する主の心臓が痛いのです。
愛する主の心臓が傷ついているのです。

そこに塗る薬は持っていませんが、この掌で包み、その傷を俺に分け与えて欲しいと、祈るのです。

俺の未熟な愛で、包み込みたいと、祈るのです。

それは、誰かの痛みと伴に在る事でしょう、そうありたいと願い祈るのです。





それでも修室の、イエズスの聖心の御像は、何故か微笑んでいるみたいなのですが・・・










15 件のコメント:

  1. ホスチアさん、こんにちは。体調はいかがですか?
    先日は、ありがとうございました。私は勝手に、先週の土曜日には、息子のことを祈ってくれていた、と思っています。感謝です。
    ところで質問があります。あえてこのブログの最新期日に書き込みしなかったことをお許しください。
    私はこちらにお邪魔する以前、福音派の方の掲示板を見ていました。その掲示板には、時々カトリックの方がいらしていて、以下のような書き込みをしていました。

    >天で、聖母は御父の愛娘として創造されました…
    天での聖母の座る位置は、主イエスの右側です。
    とコメントし、福音の方が聖書のどこにそれが書いていますか?と質問していました。
    結局、返事はなかったのですが。
    カトリックと言えど、いろいろな方がいらっしゃると思いますが、ホスチアさん、およびホスチアさんが所属なさっているところでは、どのようにこれを捉えられますか?
    あ、これは、どちらかを非難しているというのではないんです。理解したいと思ってお聞きしています。
    もしよければ教えてください。

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  2. τ平和と善。
    道子さんこんにちは。
    御子息の為には、あの御名前を御知らせ戴いた翌日から、毎朝、ミサの中で皆と御祈りさせて頂いております。

    聖母マリアの事では、プロテスタントの教えとカトリックの教えでは、きっとこの先も永遠に交わることはないと感じます
    ・・・悲しい事ですが(´;ω;`)
    さて、マリアを考える前に大切なことを押さえておきましょう。少し長くなりますが、必要な事なので、それでも簡単に説明いたしますね。

    今、福音書と呼ばれるものは、4つです。これは福音派もカトリックも同じように認めています。
    その他に新約聖書には、パウロの書簡や使徒の名で書かれた書簡、使徒言行録、ヨハネ黙示録とから成り立っており、これも福音派と共通です。
    しかし、福音は新約聖書に記されている4つだけではないのです。
    現行の新約聖書の中で最も最古に書かれたものは、パウロの「テサロニケ信徒への手紙」です。
    つまり、聖書学的に最古とされている「マルコ福音書」の方が新しいのです。
    では、パウロの書簡の中で、度々出てくる「福音」とはどんなものだったのか。
    それは、パウロ自身が主キリストから啓示を受けたものと、ペトロ達使徒から聞いた事でしょう。
    そして、福音はパウロだけが伝え歩いた訳ではありません。
    他の使徒達も宣教を行いました。
    その中で、後の世界には様々な福音書が出回る事になりました。
    カトリックでは、それらを聖典福音書から外しましたが(異端的思想で書かれた物も数多くありました)それら福音を外典とか偽典としながらも、1部の伝承を大切にしてきています。
    それを、聖伝と言います。
    これら聖伝の中に、聖母マリアの伝承も含まれているのです。

    御質問の「マリアは神の愛娘として創造された」と云う事も、「ヤコブ原福音書」の中に、マリアの誕生物語が記されていますが、其の様な福音書から、そうした伝承が発生したのだと推察できます。
    その福音には、マリアは、子の出来ないアンナの下に御使いが下り、身篭った子供とされています。
    そして、アンナとヨアキムは、その子をマリアと名付け神殿に奉献したと書かれています。
    つまり、神は御ひとり子である、イエズスに肉を与える為にマリアを創造され、マリアを愛する娘とされたと云う事です。
    その様に、カトリックでは「聖母の被昇天」、これはマリアが魂も体も天に挙げられたいう事です、そして天に於いて、「聖母の戴冠」が行われ、天の女王となられ、主の右側に座っておられるとなるわけです。
    これらも全て、聖なる伝承「聖伝」によるものです。
    ですから、聖典の福音書には何一つ書いていない、そうしたマリアの様々な事柄が伝わっているのです。
    でも、これら伝承を正しいとするまでには、過去の教会の公会議で議論され吟味された事でもありますので、それを、今もカトリック信者は信仰によって理解し信じているのです。
    勿論、カトリックないでも、マリアへの崇敬への熱には温度差がありますし、それは時代でも変化してきました。
    俺の所属している修道会は「聖母の騎士」と言った方が信者さんには通りが良い修道会です。
    ですから、聖母マリアへの崇敬は特に強い修道会だと思います。なにせ、聖母の兵隊ですから(笑)

    聖母マリアの事は、論理的とか理性的とか、頭で理解したりする事ではないように感じます。

    「聖母は懐かしい・・・それで良い」

    これは、イエズス会ヘルマン・ホイヴェルス神父様の言葉ですが、本当にそう感じます。

    聖母は、唯々・・・懐かしいのです。

    カトリックの人間には。

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  3. 追伸です。

    だから、カトリックの信者と福音派の信者が論争しても、何も生まれません。
    それは、お互いの信仰の問題です。
    信仰は、非論理的であり、非理性的な行為なのですから。

    だから、宗教なのです。

    神学でも哲学でもない、宗教なのですから、不思議で理屈に合わなくても仕方ない、神の神秘による人と神との愛の応答と交わりが、摩訶不思議な事も信仰によって霊魂が言葉を超えた言葉で理解するのだと感じます。

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  4. ホスチアさん、丁寧に教えてくださりありがとうございました!私は老眼だし(^^;)とても大切なことが書かれているので、このコメントをコピーして保存しました(笑)
    確かにホスチアさんが仰るように
    >カトリックの信者と福音派の信者が論争しても、何も生まれません。
    とは思いますが、福音派の方は勘違いしているところもあるようで、このまま黙っているのもどうかな~とも思います。

    違いを理解して、互いを尊重することが出来たらいいな、と外野の私は思うのです。

    いつかまた福音派の方が、同じような疑問をカトリックの方に持った時、ホスチアさんのコメントを抜粋して紹介してもいいですか?勿論その時は、名前も俺→私に換えますし(笑)どなたかわからないようにいたしますが…
    私は、ホスチアさんのコメントを読んで、よくわかったので…
    「偶像崇拝」「マリア信仰」は解釈の違いですね。

    私は10代の頃、病気で入院したのですが、同室の方が福音派の方で私がカトリック系の学校に通っていると知った途端、いかにカトリックが間違っているかを延々と話されていたのを思い出します。福音派の方のお持ちになる疑問は今も同じです。

    ホスチアさん、私の息子のことを祈ってくださり、ありがとうございます。皆さまにもよろしくお伝えください。

    カトリックの方は、ロザリオ好きな方が多いですね。
    祈るものなのでしょうけど、皆さんたくさん集めていらっしゃる。これは人間的なかわいい物欲とみていいですか?(笑)かくいう私も頂き物ばかり4個も持っています^^;

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  5. 確かに、プロテスタントの方(一口にプロテスタントと言っても、その教義には違いがあるのだと思います)とカトリックの信者が、その教義上の事で論争するのは良い事ではありません。
    それより、福音派もカトリックと同じ様に、三位一体の神様を信じているのですから、その共通理解を大切にしたいと思います。
    カトリックには、そうした伝承が神学とは別のベクトルで存在しつづけます。それは神への愛の表現の現われなのだと感じます。
    ですから、そうでない人間から見たら、滑稽に映るかもしれない、けれどそれが信仰なのだと思います。
    健気な可愛い存在だと、きっと神様は想ってらっしゃる事でしょう。
    そんな、マリア様の事で論争する、カトリックと福音派の信者も三位一体を信じていますが、信仰を持たない人間から見たら、なんで3つで1つなんだよ・・・訳解からないと、なるのですから(笑)
    その三位一体も説明なんて出来ません。
    信仰によって信じ理解できる、神秘なのですから。
    カトリックも偶像崇拝を堅く禁じています、マリア様は人間で神では無い事も、また良く理解していますから、マリア様に祈る事はしません。
    マリア様に祈りを届けて貰う為に、マリア様に願うのです。

    俺の話しは引用されても構いませんよ、でも効果は期待できないかもです。
    なにせ、プロテスタント=カトリックに対しプロテストする者ですから(笑)
    只、カトリック的に言えば、カトリック=普遍ですから、いつかプロテスタントの方が、戻ってきてくれると信じて祈っています。

    いつか、必ずマリアを懐かしむと信じ、その時まで。

    母は、ずっと待っていて下さります。

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  6. ホスチアさん、
    神様の計らいと私は信じたいです。
    私は、愛すべき人が増えたことを感謝します。
    福音派の方とカトリックの愛ちゃんです。

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  7. τ平和と善。

    聖母が懐かしい。

    そう感じるだけで、マリア様はそうした方の心に小さな種を植えました。

    それが、聖母の為さり方です。

    そのカトリックの愛ちゃんは・・・俺?

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  8. はいはい、その愛すべきカトリックの愛ちゃんは…そこの俺です(*^_^*)
    愛ちゃん、ありがとう!!

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  9. こちらこそ、ありがとうございます。

    今、教会史で、ルターやカルヴァンのプロテスタントをやっているところです、プロテスタントの先駆者達も、信仰と教会を憂い思い、神を愛しているからこその行動でありましたし、それは変革を起こす運動にまでなったの事は、当時のカトリックに対する神の叱責だったかもしれません。
    そして、それら全ては神の御旨です。
    人間には、計り知れない御計画のひとつなのだと感じます。

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  10. ホスチアさんのそのお言葉、プロテスタントの方が聞いたなら泣いて喜ぶかも…

    本当に神様は私たちには想像も出来ないやり方をなさいますね。後からビックリすることばかりです。

    私は、ネットで「羊飼い」(主人が夢で見たので)の意味を調べていて、行きついたのが「愛」…(ちゃん(^^))だったので、これもまた凄い話だなぁ、と感動しています。

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  11. 聖書を読むと解りますが、神様が主の御降誕を知らせた人間は、唯一、貧しい羊飼い達だけです。
    東方の博士達は、自力で苦労を重ねて知るのです。

    この違いが、神の御旨を教えてくれます。

    御子息は、きっと生前、奢ることなく謙虚で優しい方だったのだと感じます。
    だから、人の中で栄光ある「羊飼い」になったのでしょう。

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  12. 嬉しいコメントをありがとうございます。
    えーと息子は謙虚ではなかったと思いますが、彼がいると何故か私たちは笑顔になりました。うちの家族限定のアイドルでしたよ(笑)
    一般的に言うところの寿命よりずっと短かったけれど、とても楽しい時間を一緒に過ごせたし、今でも息子はちゃんと見守ってくれているし、心優しい愛ちゃんも見つけたので私は幸せですよ!

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  13. 今、幸福と言えるのは素敵な事です。

    それは、周りの人の中に幸福を見て取る心があるから。

    悲しかろうと、苦しかろうと、今、幸せと言えるのは
    愛と伴におられるからだと感じます。

    (愛って言っても、俺じゃないですから・・・あ~ややこしい)

    ありがとうございます。

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  14. >愛って言っても、俺じゃないですから…あ~ややこしい
    って…ホスチアさんがとても愛らしく感じます(^^)
    ほんとに、ややこしい(爆)
    何だか、修道院にいるホスチアさんなのに、私はあなたが、あなたの心が幸せであって欲しいと思います。
    私が祈るなんて笑っちゃいますが、祈ってもいいですか?

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  15. ありがとうございます。

    俺みたいな修道者の卵は、祈って貰わないと直ぐに躓いてしまいます。

    祈り会いましょう。

    そして、霊と霊は祈り逢うのです。

    宜しくお願い致しますぅ(´・ω・`)

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