神学院の授業のひとつに「組織神学」がある、その中で三位一体論を学んでいるのですが、
神の神秘中の神秘を、俺が理解できる筈もないのです、そこをなんとか理解しなければと
書物から講師の授業から必死に知ろうとしている訳であります。
先日の講義の時に、その必死な感覚に変化があった、講師のフランシスコ会のO神父様の話しを聞いているうちに、とても幸せな気持ちになっていたのです。
電車の中で、よく赤ちゃんを連れたお母さんを見掛ける、お母さんが赤ちゃんを見つめる顔、小さな丸い手を伸ばしてその顔を触ろうとする赤ちゃん。
その愛の発信と応答を眺めていると、自然と嬉しくなり、微笑みが浮かぶ。
そう、その感覚と似ている思いが講義を受けている時に起こった
それは、暖かな優しさに包まれるような感覚です。
それだけではない、優しく、激しく、その感覚に応えようとする想い・・・
御父の限りない優しさに全身全霊で応えようとする、御子の熱い想いと激しさ
その聖なる偉大な愛の交換の中で、抑えても抑えきれないのだとばかりに、
その愛から発せられる聖霊。
聖霊は光の触手となり、人の霊魂を捉えて包み込む
捉えられた霊魂は、その大いなる愛の交わりにと優しく、激しく応えようとする・・・
もし、今この俺もその、父と子と聖霊の愛の交わりの、隅の隅に加わらせて頂いているのなら。
そう、感じた時、優しい愛でありたい、激しい愛でありたい、応える愛でありたいと祈らずにはいられなくなるのです。
どう頑張っても、聖トマス・アクイナスの様に、聖ボナベントゥラの様に論理的には理解出来ないけれど、主が一瞬垣間見せてくれた、Trinitasは、永遠なる宇宙の神秘の様な、映像でした。
聖なる三位の神は賛美されますように。アーメン✝
三位一体の神秘は、あふれる愛の豊かさにありますね。
返信削除私も、三位一体とか、あんまりわからなかったですが、ある時から、私にとって、かけがえのないことになりました^^
溢れる愛の泉に満たされ、神様の愛の交わりの中に入れていただきたいと思います^^
平和と善。τ
返信削除今、修道院の食堂のフルーツ皿に沢山の林檎が載っています。
とても美味しい林檎です、俺は林檎の形も色も味も知っていますけれど、何故林檎が美味しいのかと尋ねなられたら、適切な答えを返せないでしょう。
それは、神様な創られた神秘の味なかのかもしれません。
ましてや、聖三位の神様を知る事など出来ない事でしょう。
それは、林檎は美味しいと、林檎を食べたいと、子供の様にそれを楽しみ味わう事で良いのだと感じます。
それでも、聖テレーズが言っているように、子供の様でありながらも、その小さな足を一生懸命に上げて、階段を昇ろうとする事は止めるわけにはいきません。
そしていつかその階段の上で御覧になっている主が、見かねて階段を降りてこられ俺をその御腕に抱き抱えて下さり、サッと階段の上に連れって下さる事と、主に信頼しながら日々学んで行こうと思っています。
祈りのうちに、その祈りがシスターの祈りと出逢い、共に主に祈れる事を感謝致します。