金曜日, 6月 24, 2011

浪漫✝幻のQ・・・聖霊によりて







新約聖書の中で最古のテキストは、聖パウロのテサロニケ書簡らしい、最初の福音書のマルコよりも古いのだそうだ。
そして、マルコの次に書かれたと言われているマタイ福音書は、マルコ福音書との類似点が多い。

聖パウロはマルコもマタイも読みはしなっかだろう、けれど主の御言葉を知っていた、聖パウロは聖ペトロや聖ヤコブと直接に話しをしているのだから、彼等から聞いたのかもしれない、しかし聖書学では、マルコ、マタイの福音書の元ネタがあるのだろと推察している。
これを、Q資料と呼んでいる、このQ資料を聖パウロも読んでいたかもしれない。

このQ資料は、イエズス語録的なテキストだったのだろうと推測されている、あのトマスの福音がそれだと言っている研究者もいるようですが、それもはっきりはしていません。

そんな生なイエズス様の言葉が満載の書がなんで現存していないのでしょう・・・

ふと、そのイエズス語録を作っていた時の使徒達の事を想い浮かべてしまいます。

1つの部屋に集まった使徒達は、想い想いに主の言葉を語るのです、トマスがペトロがヤコブがヨハネが。
「あの時に主はこう言いたよなぁ・・・」 「そう!その前にこんな事があって、主はガッカリされていたけれどな(笑)」などと・・・

そうして、沢山の御言葉が使徒達の想い出と共に綴られていったのでしょう。

そして、どの話しも書く時には、皆必ずこう云うのでした。


「そですすよね?、マリア様」

マリア様は、何も言わず、ただ笑顔で頷くのでしょう。

あの、聖霊降臨の日、使徒達は様々な国の言葉で語り出しました、今、福音書は世界の隅々にまでその国の言葉に翻訳され出版されている、まさに聖霊の御業です。

その福音書も、最初はきっとこうして、使徒達の想いを吐き出し詰め込む事から始まったのだと思います、時に大笑いをし、時に涙しながら
そして傍らにはいつも、静かにマリア様がついておられた事でしょう。

もうそのQ資料を読む事は出来ないのかもしれないけれど、マルコ、マタイ、ルカそしてヨハネの福音書を読む時、あの時の使徒達と聖母の優しさと情熱を感じます、聖霊が2千年前のエルサレムのあの部屋に導いて下さるようです。



主イエズス・キリストは賛美されますように。アーメン✝





月曜日, 6月 20, 2011

アヴェマリア






マリア様の祈りが、また変わりこれで正式との事・・・

どうも馴染めないのが、アヴェマリアだけラテン語で、他は日本語ってとこ、
なんか「baby~お前が好きさ」
みたいな安っぽいロックの歌詞みたいで゚・・・(゚´Д`゚)゚

修道院では毎土曜日にラテン語でロザリオをするのです、当然、Ave Mariaで祈りが始まるのです
だから、当初、新しい祈りでロザリオを唱える時、冒頭にAve Mariaがくるとそのままラテン語の祈りなってしまう事もあってちょっとした混乱が起きました。

今回の変更前の試用版では祈りの前半部分が、前の祈りの変更でしたが、今回は後半部分の変更で、意識しないと変更前の祈りが口に上ってしまうのです。
この、意識するってのが、祈りの邪魔になる、祈りの文言を意識すると黙想出来ないのです・・・

マリア様の祈りに併せて祈りたいと、それが大きな喜びとなるロザリオ。
心がささくれて居る時には、安らぎを齎らすロザリオ。
苦しんでいる人、悲しみの中に在る人、マリア様と共に祈る事で救けになると、
主に信頼して祈るロザリオ。

そして、俺自身がどれ程ロザリオに救われたでしょう。


あぁ~、早く慣れてお祈りできますように。








水曜日, 6月 08, 2011

シスターの女子会







毎日、神様を学びに朝のラッシュにフーフーしながら通っているホスチアですが
クラスメイトの大半は、女子修道会のシスター達であります。
様々な修道女会から俺と同じ様に、朝のラッシュの中、登校されてきます。


修道女ですから司祭になる事などありはしないのに、授業内容は司祭職にシフトしている授業内容に感じられたようで、授業が開始された当初、シスター達は、随分と戸惑っておられました。

実際は、そこまでコアな授業ではないのですかが、びっくりされたのだと思います。
そんな、シスターたちも今や、やる気満々で授業を楽しまれているようです、可哀想なのは宿題のレポート作りが、個人持ちのパソコンなど持っていないシスターたちですから、修道院のパソコンを使って書かなければなりません、インターネットに接続していない修道会もあり、何かと不便をされているようです。

そんな環境の中でも、ちゃんと宿題を仕上げてこられるのですから尊敬しちゃいます。

毎日、昼食を挟んで午前と午後、2コマの授業で、男子は修道院の食堂で食事を摂れるのですが
シスター達は、食堂に入れないため(男子修道会ですので、食堂が禁域なのです。)教室でお弁当を食べるのです。

各修道女会から集まった若手のシスター達です(若いとは書かけないのですが・・・)
そこは、女子高の教室の様になってしまいます。
俺達が食事をする食堂は1階ですが、教室は2階です、けれどシスター達の軽やかな大笑いが1階の食堂まで響いてきます。

女子修道会は男子修道会に比べると厳しい制約が多く、それは彼女達の悩みでもあり、大切な犠牲でもある様です、その個人としての苦しみと、主の花嫁として仕える為の犠牲の狭間で、かなりフラストレーションがあるのでしょう。
そんな、うっぷんを違う修道会のシスターに話せる時間が、昼休みに与えられる、主はなんとも御優しい計らいで、修道女会なんらぬ、シスターたちの女子会が昼休みに開催されるのでありました。

帰りの電車の中で、聞くシスター達の、そんな話しや、ランチ女子会での話しの内要は、とても書けませんが・・・(超オフレコ話題満載で)

これから、暑い夏になります、シスター達は、それでもヴェールをかぶり長袖の修道服でラッシュアワーに揉まれながら登校します、けれど学べる事、みんなとの雑談と、きっと毎日を主に感謝する事でしょう。

電車の中で、シスターを見かけたら、「頑張って」と、心の中でお祈り下さい。

そんな、愛すべきシスター達は、今日も大笑いを校舎に響かせていたのであります。




金曜日, 6月 03, 2011

主の示された心臓。









6月は「イエズスの聖心」の月であります。

御像や御絵では、主が自らの心臓を示されています。

毎晩、ロザリオの後に、この主の姿をリアルに黙想し祈ります、このリアルってのが俺には大切な事。
痛みは身体の痛みであろうと心の痛みであろうと、他人には伝わらない理解して貰えない事でしょう。
同じ痛みを経験すれば僅かですが、その痛みを他人の痛みを理解できるかもしれません、けれどやはり本人でなければ、それを心から知る事は無理なのではと感じます。

けれど、主は違います。
どんな人のどんな痛みをも自分の痛みとして感じ、その痛みを引き受けようとされます。

イエズスの聖心は、その人々の痛みを全て内包し自らの傷、痛みとされた傷だらけで血まみれの心臓を俺に示します。

愛する主の心臓が痛いのです。
愛する主の心臓が傷ついているのです。

そこに塗る薬は持っていませんが、この掌で包み、その傷を俺に分け与えて欲しいと、祈るのです。

俺の未熟な愛で、包み込みたいと、祈るのです。

それは、誰かの痛みと伴に在る事でしょう、そうありたいと願い祈るのです。





それでも修室の、イエズスの聖心の御像は、何故か微笑んでいるみたいなのですが・・・